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akiraさんへ

2008/10/31 01:03 

(追記・このエントリは「akira's room」の記事のコメント欄からの続きです。)
明らかに私は、出方を誤ったと思います。(またもや。)

「違和感の表明」から入っていますが、実は今回の動機は明らかに「怒り」なのです。
しかし、怒りをそのままぶつけてしまったら、リアルともつながっているakiraさんのブログには、イメージダウンとして働くかもしれない。
そう思って、ご自分で「やはり変かも」と気づいてくださることを願って、あのような怒りを抑えた書き方の(玄倉川さんに言わせれば「味方のふりをした」)質問内容になったのです。
しかし、結果的には、akiraさんにも読者の方にもダメージを与えてしまった上に、私自身もかなりなダメージを受けてしまいました。

また、私は対話をモットーにしていますが、「一対一」の対話に集中してしまう傾向があります。
「一対多」の対話は、どちらかというと人より不得手です。
そういう私の事情も、混乱を招いてしまった一因でしょう。

私の不手際から、不愉快な思いをさせてしまった全ての方にお詫びいたします。
申し訳ありませんでした。

以下、素直に感じたままを書きます。
セクハラを始めとするハラスメントに今なお苦しんでおられる当事者の方々にとっては、不愉快あるいは二次加害と感じられる表現を含むかもしれませんので、この先はどうか読まれないようお願いいたします。
(追記:同じ理由により、コメント欄もお読みになりませんようにお願いします。)

































私がakiraさんのエントリに怒りを感じたのは、
「セクハラ・水伝関連」と「セクハラ・一般」とにわざわざ分けておきながら、「セクハラ・一般」のエントリ内で参考としてあげている記事が、ある一定のバイアスしかもたらさないものばかりだったからです。
明らかにこれは、特定のセクハラ事件の「加害者」を、糾弾することを目的にしている、
そう思いました。

akiraさんがことわっていらっしゃるように、「被害者が読んでいることを考慮する」と、
必然的に「加害者は言われるがまま」になるでしょう。
「セクハラ一般」の名の下に、事情をよく知らないものも交えて糾弾されたら、
「加害者」の逃げ場はどこにもなくなってしまうのではありませんか。
カウンセラーとしてそれをされるのは、あまりにもアンフェアだと思ったのです。


今回もう一つ思ったことがあります。
「加害者」への制裁に、果たして終わりはあるのか?ということです。

「加害者」は、その加害行為について、謝罪や補償をしなければならないと思います。
場合によっては、ある程度の社会的制裁も受けることになるでしょう。
しかし、その「ある程度」の判断はだれがするのでしょうか。
被害者やその周りの人々の怒りにまかせてしまってもいいものでしょうか。

たとえば、過去のログを全て保管し、「あなたはあのときこう言った」というのを、加害者を糾弾する術にするなら、加害者の贖罪は永遠に完了しないことになります。
それでいいのでしょうか。
もしもリアルの世界で、別の人に向かって言った言葉まで全て録音してまわり、
本人が言ってもいない解釈や分析を加え続けたり、
職場などに「この人はこんなことを言いましたが、どうお考えですか?」と告げ口してまわったりすれば、
それはあきらかに制裁としては行き過ぎではないでしょうか。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。
もちろん、被害者本人にすぐにそれをせよと求めるのは、酷だと思います。
しかし、せめて直接被害を被ったわけではない周りから、時間と共に徐々にでも冷静さを取り戻し、「人を憎むこと」から「罪を憎むこと」にシフトできないものでしょうか。
もはやどこからやり直す・見直すべきなのかもわかりませんが、まだ希望をつないでいる私がいます。



追記:
拍手コメを下さった皆様・・・お気遣いあふれるコメントをどうもありがとうございました。
(そうそう、前エントリでnaokoさんにもコメントを頂いたままになっていましたね・・・(汗)すみませんm(_ _)m)
ご心配をおかけしてしまってすみません。全くお恥ずかしい限りです。

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「属せない」議論の続き・最後に

2008/09/27 02:02 

「属せない」について私の思うところをアップしてはみましたが、手応えらしきものが今のところないことを残念に思っています。
賛同意見がないのは予想できていましたが、反論(「私はそうは思わない」というご意見)もないというのは、対話を重視する私にとっては寂しいものです・・・


少し、この議論の始まりに感じたことを書いてみようと思います。

どこかのコメント欄で
「人によって『怒り』を感じるポイントが違う」
というご意見を目にした覚えがあります。
そうかもしれないな、と思いました。

というのも、
私の「怒りポイント」も、普通とちょっと違う気がしているからです。

私は「生の感情のぶつかりあい」に対しては、それほど怒りがわかないようです。
変な話、どんなにムカツク意見であっても、「だって私怒ってるんだからしょうがないじゃん!」と「感情」の部分を(直接)ぶつけてこられると、もうそれ以上追求だの分析だのができなくなってしまうのです。
「じゃあ、しょうがないな」と思ってしまうというか・・・ある意味「憎めない」に近いかもしれません。

この議論の発端となった「みみずくからの伝言」でも、とらこさんが「悪意やなんらかのバイアスが働いている」ということをあっさりお認めになったので、(・・・正確にはその前、「Lightさんへの返信」がアップされた段階で私も気づいてはいましたが)私はその場を離れることにしました。

「私情が絡んでいる」ことが明らかにされた場では、議論は難しいと思います。
つまり、
「これは私闘だ」とか「罵倒だ」などと、「私情が絡んでいる」表明のなされた場では、ゆめゆめ建設的な議論をしようと思ってはいけないのです。
参加して何か得るものがあるのは、「私情が絡んだ」人だけですから、それ以外の人は手を引いたほうが、精神衛生上もよいと思います。


で、私の「怒りポイント」ですが、
もうお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、
「直接意見を交わそうとしない」
です。
それだけならまだしも、
「この人は意見を交わす価値のない人だ」ということを、第三者相手に証明したがっているようなご意見も見ます。
(実際には「証明」ではなく、「揶揄」に近いでしょう。もちろんご本人はその意図は否定されるでしょうが。)

意見を交わす価値のない人なんて、いるのでしょうか。
仮にいるとしても、それを断言できる人がいるのでしょうか。

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「属せない」議論の続き(2)

2008/09/20 22:49 

(「属せない」議論の続き(1)からお読み下さい。)


別の違和感とは・・・
「属せない人」の意見の中に、
「属している人」に対するネガティブな見方が透けて見える場合があることです。

以下の私の意見は、その違和感の一端を表していると思います。

>「私たちって属せないんだよね〜」「そうそう!属していられる人ってわかんないよね」などと「共感」しあっている姿は、傍からから見れば十分に
「『属せない組』に属している」
ように見えます。
「オリンピック感動したね〜!」と言い合っている人と、何も違いはないように見えるのです。


そして、この意見に対するレスとして、とらこさんは以下のように書かれています。

>そうですか。そりゃそう見えるもんはそう見えるんでしょうね。個人個人がたまたま意見が一致した結果として話が合うのと、話があうように意見を一致させるのは全く違うことですが外から見たら同じに見える場合はあるでしょう。

・・・このご意見は、とらこさんの主張内容から考えると
「属せない人たち」は、「個人個人がたまたま意見が一致した結果として話が合」っているが、
「属している人たち」は、「話があうように意見を一致させ」ている場合が多い

ということを、暗におっしゃっているのだと推測します。(とらこさん、違っていましたらご指摘下さい。)

実は、このような言い方は、教育掲示板での「学校否定論者」の主張の中で、よく目にしていたものでした。
「学校では、周りに合わせて我慢することばかり教えている」
「子どもたちは自分の頭で考えることができなくなっている」
等々、言い方はいろいろでしたが、共通していたのは
「属せない人(子ども)」を一律に肯定的に、
「属している人(子ども)」を一律に否定的に
見ている、ということです。

単に、自分自身が「属せない」という意見の表明だけなら、私も違和感は抱かないと思います。
本当に属したくないならどこにも属さないで、自分らしく生きていかれたらよいと思います。人はそれぞれですから。

しかし、なぜ「属せない人」は、往々にして
「属している人」の内面を推測し、あれこれ口を出したがるのか?
私はそこに違和感を感じています。


また、別のところ
「混んでる道路でもクラクションを鳴らさない、ひどい通勤ラッシュにも耐えている」
人々に向かって「お前らいいかげんにしろ!」と叫びたくなる、
というご意見を読みましたが、このご意見にも同じような感想を持ちました。
(「属せない」とは関係ないテーマでのご意見ですが)

ご自分が耐えられないなら、そのような「拷問」のない世界で生きていかれたらよいと思います。
あるいは、「同じように感じている人を集めて社会の変革に動く」というのなら、それはすばらしいと思います。
しかし、ただ「いい加減にしろ!」とは…

ラッシュの中通勤している人々(夫もその一人です)だって、なにも「異様に従順」というわけでも、「国があって属している」と考えているわけでもありません。
家族のためと自分のためとを秤にかけ、メリットとリスクを秤にかけて、選択した結果の行動である場合がほとんどだと思います。
「同じ行動をとっている」からといって、内面まで一様だと見なすというのは、あまりにも人間に対する見方が浅すぎないでしょうか。


先日、中学校の体育祭に行ってきました。
入退場など、同じ行動をとらなければならない場面で、号令に従いたくない態度が見え見えで先生に一喝されている生徒もいましたが、いかにも思春期の子らしい反抗的態度だなぁ、と私はほほえましく見ていました。
しかし、いい大人が確たる信念もなくそんな態度では困ったことになると思います。
「人と違うことをしたい」というチャレンジャーならまだしも、「人と同じことをしたくない」という「反抗のための反抗」では・・・それではまさに思春期を脱していない中学生と同じです。

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「属せない」議論の続き(1)

2008/09/19 02:18 

(「『属せない』議論の続き・前置き」からお読み下さい。)


まず、私が気になったのは「属せない人」という表現でした。
この議論の中では、
「属せない人」とは(これもシンシンさんの表現をお借りしています)
>本人もしばしば理由を説明できないけれども拒否してしまうものがある
そういうことがなんだか多くて生きにくさを感じる人

・・・を表す、ということで落ち着きました。
しかし、なぜ「属したくない人」とか「属することが嫌いな人」という表現を用いない(用いたくない)のだろうか?
私の疑問はそこからスタートしました。

議論の中で、とらこさんは以下のようなたとえ話をしていらっしゃいます。

>例えばいい大人なのに「ピーマンが嫌い」という人がいる。物理的にピーマンが食べられないわけではなくてピーマンが嫌いなだけです。だから厳密に言えばピーマンが食べられない人ではないけど、ピーマンが嫌いで絶対食べたくない人という意味でピーマンが食べられない人という言い方をしますよね。

>ピーマンはくだらない例ですが、個人のこの好き嫌いとか感情に関わる理不尽な衝動が本人にも説明がつかない以上、「物理的にピーマン食えるだろ」「食おうと思えば食えるじゃないか」ということをもってそれは「食えない」んじゃなくて「食わない」んだ、とはいいたくないのです。


私は、このたとえ話からある事象を連想しました。

(以下自コメント引用)
>こんばんは。
「ピーマンが食べられない」から思い出した話があります。

最近、簡単に「わたしピーマン食べれないの」と主張する子どもを見ます。
(・・・いや、「この子ピーマン食べれないんですよね」という言い方をする親も増えたと感じますから、どちらかというと親の問題でしょうか。子どもは親の口まねをしているだけでしょうから。)

・・・その「食べれない」は、
・(アレルギーなどで)食べると体に深刻な症状が表れるから食べられないのか?
・アレルギーはないけれど味が嫌いで食べられない
のか?・・・さらに、「今は嫌いだが、いずれはピーマンを食べられるようになりたい」と考えているのか、それとも「嫌いなら無理に食べなくていい」と考えているのか?
・そもそもピーマンに栄養的価値を認めていないから食べようとしないのか?
・それとも何か別の理由(「ピーマンを食べようとしたら、なぜか口があかない」とか?)で「食べられない」のか?

どれなのか全然分からないのです。
「簡単に『食べれない』と言うな!食べられない理由は何なのかハッキリせい!!」
・・・と言いたくなってしまうことが多々あります。理由次第で子どもへの対応も大きく変わってくるからです。

「属せない」についても同様に、
簡単に「属せない」で片付けず、なぜ「属せない」のかの理由を考え、説明する努力をすべきではないかと思ってしまうのです。


・・・議論を追っていらっしゃった方はご存じの通り、ここから私は脇道に入り込んでしまうわけですが。
(この件についての私の弁明?及び謝罪は、時と場所をあらためてさせていただければと思っています。)

ここでは、私が本当は何を言いたかったのかを、拙いながら文章にする努力をしてみます。

普通「可能」の表現を用いるときには、対象の「意志」や「欲求」には関知しません。単なる状態の説明にとどまります。
「魚は空を飛べない」
そう言えば、それは客観的事実を表現したとして受け取られるでしょう。
「でも、本当は空を飛びたいんじゃないだろうか」とか、「空を飛ぶのが嫌いなんだろうか?なぜ?」などといった追求がなされることは、まずありません。
「魚は空を飛べない」
そう言われたら、「そうですか(そうですね)」と受諾するか、「それは事実に反する、なぜなら〜」と反論するか、どちらかの対応しかできないでしょう。

「(アレルギーなどがあるわけではないが)ピーマンが食べれない」という表現をする子どもに相対したとき、私はどう接すればよいか、いつも困ります。
「ピーマン嫌い!」と言ってくれれば
「そうお?私も昔は嫌いだったんだけど、今は大好きよ。」などと言えるし、
「ピーマンなんか食べたくない!」と言ってくれれば
「でもピーマンは栄養たっぷりだから、捨てちゃうのはもったいないと思うよ。」などと言えます。

しかし、「ピーマンが食べれない」という「状態描写」をされては、
「そうなんだ…」としか言えません。
たとえ上記のようなことを言って聞かせたとしても、「でも食べれないものは食べれない」の一点張りで通されたら、全く「打つ手なし」です。

話は少しそれますが、
「私って〜な人なの」という表現があります。
私はこの言い方にも違和感を抱いているのですが、その理由が「ピーマンが食べれない」表現に感じる違和感と同種のものであることに気づきました。
つまり、
自己を客観的に描写する表現をすることで、(他者あるいは自己との)葛藤や
矛盾に向き合わずにすませようとする

そんな傾向を感じるのです。

「属せない」という表現についても同様です。
「属せない」という表現では、
本当は属したいと思っているのか?
属することにそもそも価値を見いだしているのか?
それとも何かに(何に?)属すること自体に嫌悪感があるのか?
そこがぼかされたままであるが故に、話が「できないものはできない」に終始してしまうのです。
私がシンシンさんと同様の問題意識を感じるのは、この表現法自体に「自己をコントロールしようとする意志の放棄」つまり「無責任さ」のようなものをかぎ取ってしまうからかもしれません。

そして、結局はその「できない」理由は、他者が読み取る(感じ取る)しかないわけですが・・・
ここで、また別の違和感に突き当たりました。



※追記…ご覧の通り、「表現法の変化があったかなかったか」は、私の意見の主旨から言うと全くと言っていいほど関係のないことでした…
私自身はあっさり「表現法の変化の有無」」へのこだわりは捨てたつもりだったのですが、結果的に混乱を招いてしまいました…
とらこさん、シンシンさん、TAKESANさん、大変申し訳ありませんでした。


(続きは明日以降にアップ予定です)

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「属せない」議論の続き・前置き

2008/09/18 14:46 

本当はこのまま閉鎖しようと思っていたのですが、
書きたいことが出てきましたので、臨時にこちらを復活させて記事をアップすることにしました。

ここでの話は「みみずくからの伝言」での、とらこさんとシンシンさんとの議論に興味を引かれたところから始まっていますので、そちらをお読みいただいてからのほうが話が見えやすいかもしれません。
(なお、正確にはこの議論は、さらに前の「デザイン夜話」から始まっています。)


まず議論のテーマですが、
最終的には以下のシンシンさんのコメントに要約されると思います。

>思慮が足りず、理由を深く考えることなく、「属せない」。そういう選択を多くしてしまう人がいる。それに伴う生き難さを感じても、自分の責任とは考えない人がいる。社会に対して疎外感を感じ、自己責任を社会に転嫁する傾向がある。そういう人の存在は批判されるべきではないのか。

・・・そして私も基本的にシンシンさんと同じ問題意識を持っています。

議論の経過ですが、
「属せない」の定義とは?「説明できない」ことは「自覚がない」と同じ?などの細部の確認の末に、シンシンさんは、とらこさんのご意見を以下のように要約しています。(同じコメント内です)

>熟慮の上で、理由は必ずしも説明できないのだけれども、「属せない」。そういう選択を多くしてしまう人がいる。それに伴う生き難さを感じても、それを受け入れて生きていく人がいる。自立した生活を営む能力を持ち、社会的に無責任というわけではない。そういう人の存在は尊重されるべきではないのか。

そして両者を併記した上で、以下のようにまとめていらっしゃいます。

>ここで重要なのは、両論が共存し得る、ということです。「属せない人」の定義、あるいはどちらが社会でメジャーな存在であるか、などの観点からは議論になりますが、一方を完全否定することに意味はありません。そうはお考えになりませんか?

・・・このコメントにとらこさんは同意され、一応の決着を見た形にはなっているのですが、
私は「属せない人」についてもう少し深く考えてみたいと思ったのです。
(「こんな人がいる、一方でそうでない人もいる」という結論は、ほとんどの事象について当てはまってしまうでしょう。ある意味「多様な価値観を尊重しましょう」と同じで、議論の結論としては何も言っていないに等しいのでは、という物足りなさを感じましたので。)

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