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Author:8番ライト
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傷ついたのも「本音」、救われたのも「本音」

「何かが始まるとしたら、それは『対話』から。

そう考えてたんぽぽさんのブログに意見しに行った私は、結局撤退しました。
先方は「対話しようとしていない」と判断したから、というのが、理由の一つです。

その後私を悩ませたのは、垂れ流される「本音攻撃」でした。

「ネットに表も裏もない」という理屈のもと、外面を取り繕った表の顔とは似ても似つかぬ中傷の山は、私を悩ませ傷つけるに十分でした。
言葉そのものに対して傷ついたのではないのです。
「こういう形での本音の表現法のどこが悪い、傷つく方がおかしい」と言いたげな、その姿勢に、でした。

理屈ではもちろんその通りでしょう。
しかし、人間ってそういうものでしょうか?

少なくとも私が「対話」を重視していることを知っていながら(・・・知らないとは言わせません)そのような形での批判をして、私が何も感じないはずがないとは思わないのでしょうか。
それでいて、私とサシで話す時には、まるで何事もないかのように平然とコメントをしてくる。
私にはその神経が全く理解できませんでした。

(※もちろん、全てがそうだったというわけではありません。一定の距離感に誠意を感じるものも多々ありました。)

しかもそういう方に限って、私の発言にこめられた「本音」を読み取るのが絶望的に下手なのです。
言葉の上っ面だけを取り上げて「敵認定」しては、表面的な批判を繰り返しているのです。
その読みの浅さには何度も唖然とさせられました。

もともと私は「本音トーク」の場に乗り込むことは好まないので(「見て見ぬふり」をするのが私の流儀でした)、出向いていって説明しようとは思いませんでしたが、
やはり私も感情のある人間です。何度乗り込んでいこうと思ったかわかりません。
しかし、ある場所でのあるコメント(私に向けてのものではないのですが)が、私を思いとどまらせてくれました。

・・・・・・・・・・・

垂れ流される「本音」に傷ついた話をしましたが、皮肉なことに逆に私を救ってくれたのも「本音」でした。
それは、「カギコメ」の数々です。(一部メールも有り)

カギコメのほとんどは、応援コメントでした。
思ってもいなかった方からのエールもありましたし、騒動の「当事者」の方からの、苦悩が伺えるコメントもありました。
同じ方のコメントが、少しずつ変わっていくのを見るのは、なかなかどうして感動的ですらありました。

もちろん、批判コメントもありました。
しかしそのどれもが、真剣に・真摯に考えてくださっているのが感じられる、耳を傾けるに値するものだったのです。

少なくとも、いただいたカギコメは全て
私にとっては「ブレーキ」となってくれました。
「アクセル」になってしまったものは、一つとしてないのです。
もしかしたら、批判というのは
「他人の目」を意識しないでいられる、つまり「当人“だけ”に届くやり方」のほうが、効果的なのかもしれません。
(「さらし者にしたい」などの別の目的がある場合は、この限りではありませんが・・・)


今更のように「本音」の力を目の当たりにした私は、もっと「カギコメ」の有効性を見直してみてもいいのかも、と考えています。

休止します

このところ、いろいろな方面で「限界」を感じてしまい、どうも記事が書きにくくなってしまいました。
そこで区切りをつける意味で、あと2回ほど記事をアップした後に、一旦このブログを「休止」しようと思っています。
再開時期は未定です。今のところ消してしまうつもりはないのですが、それも気が変わるかもしれません。(そのときはお知らせします。)
突然、しかも勝手な決断で申し訳ありません。

一つ、思ったのは
私の立ち位置はやはり「中途半端」かも、ということです。
(共感を大切にしている・でも論は論として大事にしたい)
そして、このブログではどちらかというと「共感」をベースにしようとはしていませんでした。


・・・これを書くと「ほ〜ら、やっぱり“共感派”じゃないか」と、どこかで書かれるのかもしれません。

私が何かに追われるかのようにブログを立ち上げたのは、(日付を見ていただければおわかりかもしれませんが)「らんきーブログ」の閉鎖に間に合わせるためでした。
特にその頃には、ぶいっちゃんは「完全削除」を宣言していましたから、とにかく何にせよ、こんな形での終わり方を見たくない!その一心でした。
・・・不思議なものです。私はずっとぶいっちゃんには批判的だったのに。
(疑っている方もいらっしゃるかもしれません。でもぶいっちゃんのブログには、私が「8番ライト」のHNで入れた批判が、まだ残っていると思います。)

また、その前の水葉さんのブログの閉鎖にも、かなり衝撃を受けました。
ブログを閉鎖して反論の機会を自ら奪うなんて、並大抵の決断ではなかったと思います。
いくら共感できない人であっても、そのくらいは想像がつきました。

そしてその後は、ご存じの通りの展開に・・・
人のブログの閉鎖に間接的とはいえ関わっていながら平気でいられる、それどころかいなくなった人の「人格分析」エントリをいくつも連ねる、その神経に大いに疑問がわいたのです。
これはどう考えても異常事態だと思いました。
たとえトンデモな記事で大炎上したブログであっても、閉鎖した後も何ヶ月もブログ主の「人格分析」がなされるなんてことは考えられません。

さらに不思議だったのは、「もういいでしょう」と止めることの出来る人が現れなかったことです。(もちろん、私もその失敗した一人です。)
ぶいっちゃんは、少なくともやっしゃんさんからの提言を受け入れました。
しかしたんぽぽさんは・・・
「批判を受け入れよ」とおっしゃる方が、わずかな批判すら受け付けないというのは、単純に考えて「説得力がない」ように思います。


・・・さて・・・
動機の部分では「共感」バリバリだった私ですが、
考えてみたらぶいっちゃんのブログはまだ続いているし、水葉さんのブログの再開も見届けました。
そして、騒動は新たな局面を迎えつつあり(もう何度目の局面でしょうか・・・)たんぽぽさんも相変わらずです。
これ以上私がここで中途半端な立ち位置から論を振り回す意味が、あまり見いだせなくなってきました。


・・・以上がブログ休止の理由らしきものです。

某所で「私闘とはこうやるものよ!」の見本のようなものも見せていただいたこともあり、あと二回のエントリでは、やや「本音」をストレートに出してみようと思います。
皆様もどうぞ本音をお聞かせ下さい。差し支えがあるようでしたらカギコメで・・・
(でも、できれば締めくくりにふさわしい言葉でお願いいたしますm(_ _)m)

ずるいと言われようとも

どんなに反目してもいい。
どんなにやりあってもいい。

でも、
「あのときはやっぱり言い過ぎたよ、ゴメン!」
「いや、こっちも言い方が悪かったね。」
これくらいでやり直せる程度の物言いに
とどめておきたいものだと私は思う。

もちろん、
「敵」にはそのつもりはなく、反対意見をとことん叩き潰すまで、時間も労力も惜しまず、やるつもりかもしれない。
でもそれならなおのこと、結局は
「節度のある側」「自省できる側」
のほうが光って見えるようになるはず、と私は思う。

古今東西、「調子に乗りすぎた側」が勝利した試しはない。

愛の罠

(三流昼メロの題みたいになってしまった・・・^^;)


このエントリは、今までの私の意見とは少し違って聞こえるかもしれません。
しかし、「もう一方の側」にも気をつけなければならない点があるということを言いたくて、やはりこのエントリを上げます。(全ての人の耳に心地よいものではないことは覚悟しています。)


ブログ界に参入してまだ日が浅い私ですが、実はある教育関係の掲示板ではかなりの発言経験があります。
参入当初は、日本の学校教育に否定的、管理教育・画一的教育に否定的・・・下手をすれば学校そのものにも否定的な考えを持っていた私でしたが、そんな私が根本的に自分の教育観を考え直すきっかけになったのは、ある「学校否定論者」の意見でした。

最初は私もその人と意気投合していました。
「今の日本の教育は個性を押しつぶす間違った教育だよね!」
「ホントそうだよね!」
といった調子です。
そして、その背後にあったものは、紛れもなく
「自分自身や(我が子を含む)子供たちをかわいいと思う気持ち」つまり
「愛」
だったと思います。


・・・・・・・・・・

それが、徐々に考えが違う方向を向くようになりました。

その人は、
「嫌いな科目は、究極的には勉強しなくていいと思う」
と言い切りました。
学びの楽しさを知るはずの学校で、嫌な思いをする必要はない、ということです。
そしてその人の子供は、好きな科目と嫌いな科目が非常にはっきりしていました。(好きな科目=得意な科目、嫌いな科目=苦手な科目。)
さすがの私も、その単純な言い切りに「しかし公教育はそれでいいのか?」という漠然とした疑問が浮かびました。
ぶっちゃけた話、私はその意見の中に
「我が子かわいさ」
以外の理を見つけることができなかったのです。


そして、決定的だったのは
そこに別の学校否定論者が現れて、援護射撃を始めたあたりでした。
その人は明確に学校否定論者で、自分自身や知人がいじめにあった話だのつまらない授業をする先生だのを持ち出して、
「学校とは、社会の奴隷を作るところだ」
「学校は監獄だ」
などと言って、HE(ホームエデュケーション)を強力に推奨していました。

ここにきて私は初めて、自分自身の教育観を冷静に省みることが出来るようになり始めました。


そのきっかけは
「その人たちの意見がおかしいと思ったから」
ではないのです。

「その人たちとの対話が、成立しない」
という事実。
これが大きなきっかけでした。


・・・・・・・・・

その掲示板では、社会における学校の存在意義をとらえ直す優れたご意見が、その後も数多く現れました。

しかし。
彼ら学校否定論者たちは、まったく聞く耳を持たないのです。
そしていつも議論の最後に持ち出される台詞はこうです。

「傷ついている子供のことを考えて」(あなたは子供が傷ついていても平気なのか?)
「議論は思いやりをもって」
「多様な価値観を尊重して」

・・・これらの台詞が出るたびに、私は何やら「口をふさがれている」ような気分になりました。


もちろん、人として当たり前な程度の思いやりもない人には、学校についての議論には加わって欲しくはありません。
しかし彼らは、罵倒のようなことこそしていませんが、
このような反論のしにくい言葉を持ち出すことで、結局周りに異論を唱えにくくさせているのです。
これが本当の意味での「多様な価値観の尊重」に結びつくとは、私にはとうてい思えませんでした。


議論の場で、どちらかが「愛」という言葉を後ろ盾に持ち出せば、
もう片方の側はどんなに筋が通っていても圧倒的不利に陥ってしまうと思います。
それは「理」から目をそむけさせることにも通じます。

双方に
「愛」はあって当たり前。
この前提抜きに建設的な議論はできないのではないでしょうか。

(これは、「右対左」の論争などでも同じではないかと思っています。)

被害妄想気味?!

私は元々、興味の対象が次々に変わり、思考があちこちに飛んでしまうタイプなのだが(ダンナからは「スキゾってやつだな」と評されている。意味はよくわかっていない^^;)、この騒動に関しては割と一貫した問題意識をもって望んだつもりでいる。
(再掲するが、
「その目的を達成するために、果たしてその手法は有効なのか?」
である。)

しかし、上記の問題を考えることに意味を見いだせなくなった現在、いつもの私に戻っていろいろな側面からこの騒動を見て、考えはじめている。
ニセ科学批判・ニセ科学批判批判、
コミュニケーションの問題、
ブログとは、コメントとは、
そして「愛」とは(笑)・・・
等々。

今回は、コミュニケーションについて考えたこと。

「文字だけのコミュニケーションでは、人は“被害妄想チック”なとらえ方をしがちである」

これは、私が今回学んだことの一つだ。
(おっと、もちろん私も例外ではない。)

例に挙げて申し訳ないが、
水葉さんを「被害妄想じみたところがある」と評したたんぽぽさんご自身でさえ、すてはんさんという方のコメントを思い切り誤読しているのを見たとき、抗えない人間の性を確信した。

私自身について言えば、
意図のよくわからない意見は、とりあえず「反対意見ではないか」と身構えることが多かったように思う。
これも被害妄想的といえば被害妄想的だ。結果、非常に示唆に富むご意見の数々を生かし切ることができなかった・・・これは今もかなり悔やまれるところだ。

・・・とはいえ、
「ではこの教訓を生かして、意図のよくわからない意見はとりあえず“好意的”なものと考えよう」
というのも、それはそれでちょっと違うという気がするし・・・

結局、できることと言えば
相手の意図がわからない場合は質問すること、
その際自分の思いこみは極力交えないこと、
誤解があったならその都度訂正すること、
迷ったら「書いてないものは書いてない」に立ち戻ること、
・・・等々の、きわめて「当たり前」な心がけばかりのような気がする。
たとえスマートではなくても、こんなふうにあちこちぶつかりながら(ときにはケガもしながら)、やっていくのが一番、ということなのかもしれない。
そうすれば、その過程から得るものは、きっと多いだろう。
(自分も、相手も、そしてそれをROMしている人も・・・)


※それと、誤解されにくくするための実利的なテクを上げるなら
「主語を省略しない」こと、
超基本ながらこれは有効だと思う。

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