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「事実」へのこだわり

子供は「事実」が大好きだ。
「事実」は何よりも強いと思っている。

たとえば、よくある子供のケンカは、「これは事実だ」という主張に基づいてなされるものがとても多い。(実感)

「今『バカ』って言っただろ?!」
「違うもん、『バカ“みたい”』って言ったんだよ!『バカ』とは言ってないもん!」
「『バカみたい』って『バカ』と同じじゃんかよ!」
「残念でした、意味も違うし字も違うだろ!ほんとバカみた〜い」
(・・・以下、ケンカは続く)


ケンカを親に仲裁されて。
「・・・じゃあ、あんたも謝りなさい。」
「(蚊のなくような声で)ごめんなさい
「何?聞こえなかったよ。」
「ちゃんと謝ったよ!」
「聞こえるように謝らなきゃだめでしょ」
「わかったよ!(バカでかい声で)ゴーメーンーナーサーイー!!!」
(・・・たいていの場合、また怒られる)


私の見たところでは、その傾向は反抗期の男子に最も強く見られるようだ。
(女子は、「男子ってバッカみたい」と言いたげな覚めた目でそれを眺めている場合が多い。)

しかし、だ。
別に寛容さをアピールしたいわけではないのだが、
その「事実へのこだわり」をほほえましい目で見ている私もいる。
・・・と書くと「上から目線」みたいだが、そうではない。
こういう「事実」にこだわる姿勢こそが、科学などへのあくなき探求心の「原動力」になっているのではないか、と思うのだ。

この「こだわり」は、それ「だけ」で終わってしまっては、まさに子供レベルに終わってしまうだろう。
しかし、
他人にも納得のいくようにそのこだわりを説明できる力
や、
他人のこだわりを理解しようとする力
あるいは
そのこだわりが、世の中にどのように役立つかを考察できる力
などと組み合わさったときには、この「こだわり」はとてつもない力を持つのではないかと思う。

「愛」について

(この記事は、NewsOLさんのエントリ「愛」についての考察(1)への返信です。)

NewsOLさん、こんばんは!「愛」についての記事を、じっくり読ませていただきました。
とりあえず順を追って、私の意見を書いていこうと思います。

>「愛はこういうものです!」って自信を持って答えられないのですが(^^;)

・・・それは私も同じです(笑)でもがんばって考えてみますね。

「愛」について考えようとするとき、いつも私の中に浮かぶある台詞があります。
マンガ「ぽっかぽか」の中の台詞だったと思うのですが、(スミマセン、マンガ世代で^^;)
「昔の日本人には、欧米で言うところの『愛』の概念はなかった。
 あったのは『情』だけだ。(男女の情、親子の情・・・)」

というような言葉です。(うろ覚えですので間違っていたらすみません・・・)

何を言いたいかというと、
「愛」って、そんなに崇高なものでなくてもいいと思うのですよね。

>「子供に幸せになって欲しい」と願うことは素晴らしいと思いますが、
幸せになって欲しいからといって、子供の将来(進路・仕事)を
子供の気持ちや考えよりも自分の「幸せというモノサシ」を優先して
勝手に決めたりするのは「愛」とは言えない=「エゴ」だと思うのです。

Lightさんのおっしゃった「自分が幸せになりたい」というのは
"自分の欲"なので、ほんのわずかでもその気持ちが行動の動機にある場合は、
「無償の愛」じゃないと思うのです。


・・・私が書いた「自分が幸せになりたい」というのは、
「子供の幸せがすなわち自分の幸せである」
という意味なのです。
これは、ある意味「自分に対する見返りを求めている」わけですから、「無償の愛」とは言えないでしょう。
でも、それでいいのではないかと思うのです。
「子供がいくら幸せになっても何も感じない(あるいは逆に不幸せになる)」というのは、普通親には不可能ですよね。

そういう意味で、私もコメント欄のTAKESAN同様、「無償の愛」というのは人間には無理だと思いますし、またそれを目指すこともないと思っています。
(もちろん、「何が幸せか」の問いは、常につきまとうと思いますが。)

>(※子供が命を落としかねない危険な状態に置かれたときに親が自分の命すら顧みず、
子の命を救おうとする行動は「無償の愛」といって差し支えのないものだと思います。)


・・・同様に、これも親としては理屈抜きにそうせずにはいられないのです。子供のため、なのか、自分のため、なのか、考えることすらできない場合がほとんどだと思います。
ある意味「習慣」の延長線上にあると言っても過言ではないと思います。


さて、次に「議論での愛」についてです。

私は自分のブログの中で「社交術」についてこんな記事を書きました。

>考えてみたら、社交術というのは、相手を「異質な者」と見なすことを前提にしている。だからこそ、最初に「私はあなたを“敵”とみなしてはいませんよ、話の出来る人間ですよ」という表明を、一定の儀礼にのっとって行うのだ。

・・・残念ながら、人間は誰にも彼にも「愛」を抱くことは出来ません。
ことに、自分と違う意見を持つ人に対して「愛」を成り立たせるのは、至難の業でしょう。
それは、「愛」が「自分を犠牲にする無償の愛」であっても、「相手の幸せと自分の幸せが区別できない」ような「情に近い愛」であっても同じです。

ですから、「異質な者」と対峙する議論の場に必要とされるのは、「社交術」に代表される最低限の礼儀でいいと思っています。
「敬意をもって相手に接する」ことなら、その気さえあれば誰でも学ぶことが出来ると思います。
(そういう意味では、「愛」は「敬意」と同じ座標軸上には無いのかもしれません。)

「議論には愛が必要」とすると、それは高すぎるハードルになりますが、
「議論には敬意をもって」なら、有意義な話し合いにすることは格段に容易になると思うのです。


・・・蛇足ですが・・・
ある場面では同じ意見でも、また別の場面では違う意見を持っているというのは、とても健全なことだと思いました♪
(それでも、「〜派」と「ひとくくり」にしか見てくれない方もいるのかもしれませんけど・・・)

物語・3

(これは、「物語・1」「物語・2」の続きです。)
これまで長々と書いてきたが、ここでやっと「水伝」の話とつながる。


これまで、物語を「音楽の世界」を例に語ってきたが、もうおわかりのとおり、
私が本当に言いたいことは、
「人それぞれに物語がある」
ということだ。
ブログを始め、人が表現していることは、物語の中の物語だといえる。
そして各記事は、またその中の物語だ。
(そういえば、愚樵さんに「ブログというのは間奏曲集ですね」と、いきなり核心を突くコメントをいただいて驚いた・・・(笑)


切り出してきたものを批評しようとするなら、
それが「切り出されてきたもの」であることをしっかりと認識してからにすべきだろう。
(いや、もちろんそうしない自由もあるが、それは自分の「底の浅さ」を露呈していると気づいて欲しい。)

実は、かく言う私もその態度はまるでなっていなかった。
最初この件も、「非科学的なものを信じやすいというのは、リテラシーの低さを表している」
としか、とらえられなかったから。(今は自分のものの見方の浅さを悔やんでいる。)

今回の件をきっかけに、当該記事前後の記事も(全てではないが)やっと素直な目で読むことができた。
そこには確かに、不器用ながら日々考えを紡いでいる「物語」が見えたのだ。


中でも私が心を打たれたのは、「脳卒中で倒れた親友の闘病記」だった。
昨日まで元気だった友人が突然倒れ、生死の境をさまよう。奇跡的に体は回復したが、「言葉」を失っている。
人の名前がわからない。時により違う名前になる。
「とけい(時計)」という言葉一つを記憶し、再生するのにも多大な困難を伴う。
長期的な記憶ができない。いらだちから周囲に当たることもあった。

この記事からは、ぶいっちゃんが大きなショックを受けながらも、一進一退の友人に寄り添い、悩み、励ます姿が伝わってくる。
病人だからと甘やかすではなく、かといって厳しく叱咤するのでもなく。また、悲しみに沈むご家族の心の支えとなって、明るさを失わず奮闘している。
こんな友人を持つK氏は、どんなにか幸せだろう。

たった一言を引き出すのに大変な苦労を経験してきた、「言葉」の重みを知らないはずはない人が、ふと口にした「言葉の不思議」。
人間の活動は、科学だけでは説明しきれない部分が多いということを実感してきて、それがたまたま強く思い起こされた記事だったのではないだろうかと思う。
それを、ただのニセ科学信奉者とひとくくりにするのは、ものの見方が浅すぎないだろうか。


一方、「物語」の続きはどうだろうか。
ぶいっちゃんは、男気のある(といったら語弊があるだろうか)タイプのようで、義理を通さない人間に義理を通す筋合いはないと感じているように思う。一方義理人情に厚いので、自分をかばってくれる人の気持ちに最大限配慮しているように見える。
これが一大混乱を巻き起こしてしまったことは確かだ。
(しかし気持ち的にはよく分かる。人間誰しも「意地」があるし、そう簡単には引き下がれないだろう。)

しかしそれも、ここにきて真摯に振り返り、はっきりと謝罪の意志を表している。
「らんきーブログ」という一つの物語が終わろうとしている今、(そして「ぶいっちゃん」自身の物語はまだまだ続く)これで幕引きにすることはできないものだろうか。
彼の人間的資質までが断定的口調で語られ続けるのを、これ以上見るのは忍びない。
失敗した私が言うのはなんだが、「物語を尊重しましょう」とうまく進言できる人は、現れないのだろうか。

物語・2

「物語・1」で間奏曲の話を書いた。


間奏曲は、その前後の物語とともに、一つの大きな世界をつくっているから、
本来それだけ・そこだけを取り出してその価値を云々することはできないものだ。

もっと言えば、
「曲集」というのは、個々の曲がつながりを持って一つの「物語」を形作っていると言える。
交響曲もそうだが、全楽章を通して聞かなければ、本当の物語は見えにくい。
一楽章だけ取り出して聞くのは、作曲家の創造した本来の「世界」ではないのだ。

さらに、
「作曲家の生涯」という単位で、また一つの物語がある。
先述のブラームスの間奏曲にしても、晩年に作られた曲だということを知って聞くと、「ブラームス」という物語が、おぼろげながら感じられる気がする。

そしてそれは、他の作曲家の「物語」と交わる。

さらに、時代という大きな物語が、それを包む。

この世界は、多層構造をなした「物語」の集積だ。


世界の全貌をありのままに知ることは、誰にもできない。全ての曲を聴くことは不可能だから。
それならせめて、ある曲を聴くときは、
それがより大きな物語の一部に過ぎないことを知り、思いをはせる。
そういう謙虚な気持ちで耳を傾けて欲しいと思う。

物語・1

まるで何かに憑かれたように、記事をアップし続けている。
まあ、こういう時は人生にそう何度も訪れるものではないから、とりあえず行けるところまで、やってみるのみだ。


私はピアノを弾くので、音楽(特にクラシック)を深く愛している。
ブログIDは、たまたま手元にあったブラームスの間奏曲集から拝借した。(・・・何を入れてもはじかれるので、「これならどうだ!」と半分勢いでつけてしまったのだけれど。)
このDrei(3つの)Intermezzi(間奏曲intermezzoの複数形・ちなみにintermezzoは、やはりはじかれてしまった…)op.117は、私の大好きな曲集だ。
今はちょっとだけマイブームを過ぎてしまったが、ブラームスがお気に入りであることに変わりはない。


「間奏曲」の定義は、文字通り「曲と曲の間」に演奏される小品(たいていの場合)なのだが、
若い頃の私は、「第九」や「英雄ポロネーズ」みたいな大曲ほど名曲だと信じていたところがあって、「間奏曲」のような小品にはあまり価値を見いだせずにいた。

さて、ブラームスの間奏曲だが・・・
ブラームスは晩年になってピアノのための間奏曲を数曲書いているが、
「間奏曲」と言いつつそのどれもが独立した作品であって、「何かと何かの曲の間」に演奏されるためのものではない。
それって「間奏曲」じゃないのでは・・・?
そう思うかもしれない。確かにその通りだ。


ブラームスの間奏曲は、
その前後の「物語」の存在を感じられる人
のためのものではないか、と思う。

「前後」の物語、それは何も「ブラームスの曲」に限らない。
音楽である必要さえもないと思う。

独立して現れた「間奏曲」の前後にあるものは、
聞く人、弾く人それぞれに違うものにになるだろう。
そこに、人は自分にしかわからない「物語」を聞く。だから間奏曲が味わい深いものになるのだろう。


(この話には続きがあります。しかし今日はもう寝ますのでまた次回…
「のだめ」で交響曲第一番が人気を得たブラームスですが、ご興味のある方は、op.117もぜひ聞いてみてください。
ただし、暗いです。今の季節に合うかどうか・・・^^;

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