(この記事は、NewsOLさんのエントリ
「愛」についての考察(1)への返信です。)
NewsOLさん、こんばんは!「愛」についての記事を、じっくり読ませていただきました。
とりあえず順を追って、私の意見を書いていこうと思います。
>「愛はこういうものです!」って自信を持って答えられないのですが(^^;)・・・それは私も同じです(笑)でもがんばって考えてみますね。
「愛」について考えようとするとき、いつも私の中に浮かぶある台詞があります。
マンガ「ぽっかぽか」の中の台詞だったと思うのですが、(スミマセン、マンガ世代で^^;)
「昔の日本人には、欧米で言うところの『愛』の概念はなかった。
あったのは『情』だけだ。(男女の情、親子の情・・・)」というような言葉です。(うろ覚えですので間違っていたらすみません・・・)
何を言いたいかというと、
「愛」って、そんなに崇高なものでなくてもいいと思うのですよね。
>「子供に幸せになって欲しい」と願うことは素晴らしいと思いますが、
幸せになって欲しいからといって、子供の将来(進路・仕事)を
子供の気持ちや考えよりも自分の「幸せというモノサシ」を優先して
勝手に決めたりするのは「愛」とは言えない=「エゴ」だと思うのです。
Lightさんのおっしゃった「自分が幸せになりたい」というのは
"自分の欲"なので、ほんのわずかでもその気持ちが行動の動機にある場合は、
「無償の愛」じゃないと思うのです。・・・私が書いた「自分が幸せになりたい」というのは、
「子供の幸せがすなわち自分の幸せである」
という意味なのです。
これは、ある意味「自分に対する見返りを求めている」わけですから、「無償の愛」とは言えないでしょう。
でも、それでいいのではないかと思うのです。
「子供がいくら幸せになっても何も感じない(あるいは逆に不幸せになる)」というのは、普通親には不可能ですよね。
そういう意味で、私もコメント欄のTAKESAN同様、「無償の愛」というのは人間には無理だと思いますし、またそれを目指すこともないと思っています。
(もちろん、「何が幸せか」の問いは、常につきまとうと思いますが。)
>(※子供が命を落としかねない危険な状態に置かれたときに親が自分の命すら顧みず、
子の命を救おうとする行動は「無償の愛」といって差し支えのないものだと思います。)・・・同様に、これも親としては理屈抜きにそうせずにはいられないのです。子供のため、なのか、自分のため、なのか、考えることすらできない場合がほとんどだと思います。
ある意味「習慣」の延長線上にあると言っても過言ではないと思います。
さて、次に「議論での愛」についてです。
私は自分のブログの中で「社交術」について
こんな記事を書きました。
>考えてみたら、社交術というのは、相手を「異質な者」と見なすことを前提にしている。だからこそ、最初に「私はあなたを“敵”とみなしてはいませんよ、話の出来る人間ですよ」という表明を、一定の儀礼にのっとって行うのだ。・・・残念ながら、人間は誰にも彼にも「愛」を抱くことは出来ません。
ことに、自分と違う意見を持つ人に対して「愛」を成り立たせるのは、至難の業でしょう。
それは、「愛」が「自分を犠牲にする無償の愛」であっても、「相手の幸せと自分の幸せが区別できない」ような「情に近い愛」であっても同じです。
ですから、「異質な者」と対峙する議論の場に必要とされるのは、「社交術」に代表される最低限の礼儀でいいと思っています。
「敬意をもって相手に接する」ことなら、その気さえあれば誰でも学ぶことが出来ると思います。
(そういう意味では、「愛」は「敬意」と同じ座標軸上には無いのかもしれません。)
「議論には愛が必要」とすると、それは高すぎるハードルになりますが、
「議論には敬意をもって」なら、有意義な話し合いにすることは格段に容易になると思うのです。
・・・蛇足ですが・・・
ある場面では同じ意見でも、また別の場面では違う意見を持っているというのは、とても健全なことだと思いました♪
(それでも、「〜派」と「ひとくくり」にしか見てくれない方もいるのかもしれませんけど・・・)