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小さな幸せと大きな幸せ

最後は、やっぱり「音楽ネタ」にしました。(実はリクエストらしきものもありまして♪)


1.小さな幸せ

この1、2ヶ月ほど、私が打ち込んで練習していたのは、ラヴェルの「水の戯れ」です。

実はこの曲、今までも何度か弾いてみようとしたのですが、あまりの譜読みの困難さに挫折を繰り返していました。
その難しさときたら、何かの嫌がらせ?!と思うほどなんですよ。(譜面を見た子供は「これ音楽なの?!ただの模様みたい、おもしろ〜い♪」と大受けしていました・・・)

・・・まあ、もともと私はそれほどラヴェルが好きというわけでもなく、「水の戯れ」にしても
「水の流れる様子をうまく描写しているなぁ」
くらいの感想しかなかったので―下手をすれば「ちょっと凝った環境音楽」くらいの評価だったかも―練習に身が入らないのも無理はなかったのかもしれませんが。

それが、何を思ったか急に練習する気になり(・・・これも「水伝効果」か?なんて冗談ですよ^^;)そうこうするうちに弾けるようになってきたのです。
すると、どんどん曲の魅力に・・・いや、ラヴェルの魅力にとりつかれてしまいました。
弾けるようになってから感じ始めた悦楽は、ただ「聴いていた」ときに感じていたものとは、比べものになりませんでした。

演奏者には、時折ものすごい「幸せ」が訪れます。
ところが残念なことに、この幸せはほとんど人と共有できません。

指先から伝わってくる生きた響き、
メロディーが気持ちと重なる喜び、
特定の箇所を弾くとなぜか目に浮かぶ、幼い頃の思い出、など・・・
そのどれもが、誰とも共有できない「幸せ」なのです。
音楽というのは、「孤独」となんて相性がいい世界なのだろう・・・そんなことを思いました。


2.大きな幸せ

そんなとき(・・・正確には2週間ほど前)、今度は正反対の経験をしました。
それはベートーベンの「第九」です。「泣く子も黙る」という感じですが^^;
毎年「市民による第九」が合唱参加者を募集していて、ずっと気になっていたのですが、勇気をふるって今年初めて講習会に参加してみました。

最初の一声で、身震いがしました。

今までに味わったことのない「一体感」・・・それは「個々の声の集合」なんかではなく、まるで皆が大きな一つの楽器になったような、そんな感覚です。
これは(・・・というか、これも)体験してみないことには決して知り得なかった喜びでした。

実は私の母は合唱をやっていたので、毎年第九を歌っており、私たち兄弟は毎年聴きに行っていました。
「母との確執」についてはこのブログでも触れましたが、私はずっと女声合唱の響きの中に母親の歌声を聞き、愛憎渦巻くような感情に涙がこみあげてきたものでした。
最近はすっかり穏やかに(朗らかに)なった母に、電話で第九を歌うことを報告したのですが、そのときの母の嬉しそうな様子は私の想像以上で、これも驚きとともに感慨深いものがありました。

「やっぱり歌詞がいいわよね。『全ての人間が兄弟となって』・・・」
熱っぽい母の語りを「やっぱりあんまり変わってないな^^;」と思いながら聞きつつも、私は音楽のもたらしてくれたもう一つの幸せ(理屈を超えた一体感=大きな喜び)に浸っていました。


この「孤独」とは対極にある喜びもまた、まぎれもなく音楽の醍醐味です。
相反する二つの喜び。そのどちらも、「真実」です。
片方は正しくて、もう片方は正しくないというものではありません。
「音楽と正面から向き合う」(from「のだめ」)ためには、「真実は一つ」という言葉に逃げ込むのではなく、一見相反するように見える二つ以上の真実と向き合うことこそが求められるのだと思います。

裏拍担当

先日子供の合奏発表会で、面白い現象を見た。


4分の4拍子の元気な曲。小太鼓とトライアングルが正確にリズムを刻んでいる。

一拍目・三拍目・・・小太鼓

二拍目・四拍目・・・トライアングル

聞こえてくるリズムは
タン!(チーン)、タン!(チーン)、・・・」こんな感じだ。

一番が終わり、二番に入ったときに、その現象は起きた。
一番の終わりが少々難しかったらしく、小太鼓の子は少々のミスをきっかけに混乱してしまったようだった。
何とか立ち直り、無事演奏は続いたのだが・・・

ナント、そのとき小太鼓とトライアングルの役目が見事に入れ替わっていたのだ。

チーンタン!)、チーンタン!)、・・・」

聞いていた人でこの変化に気づいた人は、おそらくほとんどいなかったと思う。
それほど自然に、リズムを刻んでいた。子供たちの表情も、動揺を感じさせない、普段通りの真剣なものだった。

トライアングルの子は、小太鼓が少々遅れだして二拍目と四拍目に近くなったところで、(恐らく無意識のうちに)一拍目と三拍目を受け持ったのだと思う。
私はこの現象に、妙に感心してしまった。
人間は無意識のうちに、集団の中で自分の役割を少しずつ変えながら、バランスを取ろうとしているのかもしれないな・・・そんなことを考えた。


ここで、話は大いに飛躍するのだが・・・^^;今日本屋の店頭をつらつら眺めながら思ったこと。

本屋では相も変わらず、スピリチュアルだの血液型だのの「非科学的な」本がひしめいている。
そのうち勢いも衰えるだろうと思っていたのだが、今のところその兆しはない。
この科学全盛の時代に・・・と不思議に思ったりもしたのだが、もしかしたらこれは
「科学」が強くなりすぎたことに対して、人間が無意識のうちにバランスを取ろうとしているために起きている現象なのかもしれない・・・
ふと、そんなことを考えた。

変奏曲

久々に音楽ネタです。

私は、モーツァルトやベートーヴェンなどの主立ったところのピアノ曲はかなり弾いてきました。 が・・・
ぶっちゃけた話、弾いていて最もつまらなかったのは「変奏曲」でした。

同じモチーフを違うアレンジで演奏することのどこが面白いのか、全く分かりませんでした。
どんな凝ったアレンジであっても(いや、凝ったアレンジであればあるほど)、ただ
作曲者がその技能をひけらかしたいだけなんじゃ?
としか思えなかったのです。


それが、違う見方が出来るようになったのは、
「のだめ」でブラームスの「パガニーニの主題による変奏曲」を聞いてからです。


この曲は、のだめのライバル「ゆーとくん」がコンクールで弾く曲です。
ゆーとくんは、幼い頃からのだめの天性の才能に嫉妬し、何かと張り合っている奏者です。コンクールでも、のだめの出演直前に、「天才も二十歳過ぎればただの人、ってね」と心理的揺さぶりをかけてくる、言わば「悪役」キャラですね。

そして、ゆーとくんの演奏は・・・
確かにテクニックは完璧でした。
しかし、その「行き詰まり感」ときたらどうでしょう。

同じメロディーを違うアレンジで何度もなぞる。そのたびに、テクニック的には次々にものすごい局面を見せる。
しかし結局は、同じ場所で堂々巡りし続けているだけのような、そんな絶望感・・・
それを表すのに、これ以上の選曲はなかったように思います。

変奏曲の味わいを知ったのは、それからでした。

バリエーションの繰り返しは、
「同じ場所にとどまっている」ことでありながら、
「もとの場所には二度と戻れない」ことも表しているのです。
それは、人生になんと似ていることでしょうか。

ソナタ形式もそうですが、人の感動を呼ぶのは
「繰り返される」ことを目の当たりにする時(つまり「再現部」ですね)
ではないかと思うのです。
同じメロディーが、違う場所に置かれる時、
「同じもの」であるはずが、既に同じものではあり得ない。
それに気づくとき、人は逃れようのない「運命」めいたものを感じ取るのではないでしょうか。

そして歴史も、
私たち一人一人の意志とは無関係に、繰り返されています。
それを「楽しむ」とまではいかなくても、
せめてあがき続ける自分たち自身を笑えるくらいの余裕があれば・・・と思ったりするのです。

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