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真のモヒカン2

世の中(・・・リアルもネットも)「モヒカン」を気取る人は多いが、たいていの人がその実そうではない、ということを、どうやら私は早い段階から「違和感」として感じていたようだ。
それというのも、「真のモヒカン」にしては、あまりにも行動様式が違いすぎるからだ。

参考までに、以下に私の知っている「真のモヒカン」さんの特徴をあげてみる。


1.批判は直接。

親しかろうが親しくなかろうが、どんな相手にでも、批判は「直接」加える。
時・場所・場合、全くおかまいなし!(・・・もちろんそれがしばしばトラブルを引き起こすわけだが)
彼らにとっては、相手に届かない形でなされる批判は、意味がない。


2.目的が明確である。

そして目的を達成したら、当然すぐに引き下がる。「長居」する意味は、ない。
また、相手を良くしてやろうとか教育してやろうという意図をもって批判を加えているのではない。あくまでも「論の間違い」を「論の間違い」として指摘することが目的である。
(ここは、Wikipediaの「モヒカン族」の説明が少し違うのではと思う部分だ。)
従って、相手の人格にまで言及するような「余計な一言」は、一切付け加えない。


3.自分の間違いを指摘されたときも、それが理にかなったものなら、素直に認める。

何しろ「感情」のバイアスがないに等しいので、こちらが拍子抜けするくらいにあっさりと自分の非を認めることも多い。


・・・こうやって見てみると、やはり「真のモヒカン族」と言える人は、ほとんどいないような気がする。

真のモヒカン

モヒカン族 (ネット用語)(Wikipediaより)

モヒカン族(モヒカンぞく)は、インターネット上の議論における論客の一類型を表すインターネットスラング。

(中略)

特徴
モヒカン族の類型は、インターネットあるいは他のコンピュータネットワークの古い利用者の文化に似る。はてなグループ mohicanにおけるモヒカン族宣言などによると、以下のような特徴を持つ。

技術的知識に優れ、それらの知識を当然の物として扱いがち。
情緒的なやりとりよりは情報の交換を重視する。
社交辞令は抜かして端的に論点を述べることが望ましいと考える。
ミスを指摘すること、ミスを指摘されることは悪意的なことや失礼なことではなく、間違った情報を訂正する大切な行為であると考える。
間違った情報を発した者には、即座に率直に真摯に訂正する習慣を身につけさせようとする。これは相手を「育てる」ことであると考えている。
情報に独自の解釈を加えて伝達するがごとき行為を伝言ゲームと解釈し、一律に嫌悪する。
発言内容こそが重要であり、発言した人物は重要ではない。
正しい情報に対して尊重する態度を持つべきである。
発言した人物によって受け取り方が変わるような情報であれば、その情報にはそもそも価値がない。
モヒカン族が情報の交換としての対話を重視するあまり、対話を通じて相手が感情的になる可能性を軽視すること、また間違いは積極的に訂正しようとする習慣はしばしば揉め事につながる。モヒカン族は対話の相手に対して、当たり障りのない言い回しではなく端的な指摘をする。また相手の論に間違いがあると考えればそれを1つ1つ確実に指摘しようとする。

このような執拗な指摘は、非モヒカン的な感性においては論ではなく人格に対する攻撃であると感じられることがある。そのような感性の持ち主がモヒカン族と出会うと、人格を非難する目的がなければもう少し感情を斟酌してくれるであろうと期待し、その期待を裏切られることでモヒカン族の側に悪意を見出す。その結果として感情的な不毛な論争をもたらしがちなのである。

また、他の人よりも言葉を重視し、敢えて行間を読まずに書かれていることによってのみ相手の主張を読む、という行動様式が、揚げ足をとっているように錯覚されることも多い。往々にしてモヒカン族の多くは揚げ足を取ることを目的としておらず、相手のレベルに自分の行動様式をあわせるということをしていないだけと考えられる。



以前からたまに目にしていながら、意味を知らなかった言葉の一つだ。
何となく「群れない」とか「一匹狼」みたいな意味かな?と思っていたのだが、ちょっと違っていた。

実は、私はリアルで「モヒカン」そのものの人を知っている。
その人にとっては、対話は「情報交換」の意味しか持たず、人がそれによって感情を害そうが全く関知しない。というか、そのことに気づいてさえいない。
一方で、自分の感情にももちろん無頓着である。
「普通こういうこと言われたら怒るだろう」と思うところでも、そうはならないので驚くこともしばしばである。

実はこういうタイプの人は、こちらがその特徴さえつかんでいれば、さほど不愉快な事態には陥らない。むしろさばさばして気持ちがいい場合すらある。
(一方当人のほうは、「非モヒカン」中心の世間ではやはり何かと風当たりも強いようで、感情を理解するスキルを「テクニックとして」身につける必要に迫られているようだが・・・)

むしろ私がやりにくいと感じるのは、こちらの記述にあるほうだな、と思った。

偽モヒカン族
モヒカン族であるかのように振る舞っているが、実際には相手を攻撃する意図を持っており、自身が感情的/攻撃的な動機に囚われているという点でモヒカンではない人々。自覚的にモヒカンを演じる人を特に偽モヒカン族、自身ではモヒカン族のつもりであるが無自覚にそこから外れている人のことを似非モヒカン族とも呼ぶ。



ネット上でも、真のモヒカン族にはほとんどお目にかからないが、偽モヒカン族にはしょっちゅう出くわすような気がする。そして、余計な混乱を招くのは、たいていこちらのほうではないかと私は思っている。

「私闘」大いに結構、だが・・・

このところ、次々に水伝関連のブログ記事が立ち上がり、コメント欄を中心として様々な展開を見せているので、そちらのほうに気を取られてエントリがなかなかあげられません。
申し訳ありませんが、「次の局面」に進むのは、もう少し先になりそうです。

さて、あちこちで取り上げられている「私闘」について、私も書いてみようと思います。

まず・・・私は「私闘」という言葉に悪いイメージは持っていません。

「私闘」と聞いて最初に思い浮かんだのは、
「吹き方が気に入らない」とファゴット奏者に決闘まで申し込んだと言われる、「音楽の父」ことJ.S.バッハです。(←すみません、「のだめ」で仕入れたネタです^^;)

何とも魅力的ではないですか。
誰の利益にもならないのに、意地とプライドで相手に勝負を挑む・・・その心意気やよし、です。
もちろんこれも、大きな意味では音楽界に貢献した闘いになったかもしれませんが、少なくとも当人たちはそんなことはその時点では気にしていないでしょう。
それがバッハという人物像に何とも言えない人間味を感じさせてくれて、私はこのエピソードが大好きです。

しかし、「私闘」と言うからには、やってはいけないことがあると思います。
それは「公」を大義名分にすることです。
それをやったが最後、「プライドをかけた闘い」は、ただの「弱いものいじめ」に成り下がります。
そこをきちんと分けておかなければ、マナーというよりも、最終的には周りに向けての「説得力」の有無にもかかわってくると思います。

さて・・・
「社会(公)に及ぼす悪影響を心配して」なされたはずの批判は、「私闘」だということのようです。
私としては、まず最初に「直感は正しかったんだな」という印象を持ちました。

しかし、腑に落ちないのは、たんぽぽさんを擁護していらっしゃる方々の反応です。
お一人くらい、
「私はあなたの私闘につきあったつもりはない!」とか、
「『水伝』が社会に及ぼす悪影響について啓蒙するのが目的ではなかったのか?」
などと異議を申し立てる方がいてもいいのに・・・というのが、私の率直な感想です。
普段から「論は論、是々非々」の方々だと思っていたのですが・・・
「論理派」が、まるで「(たんぽぽさんに)共感派」に見えてしまいます。それでいいのでしょうか・・・

お詫び

このエントリは、apjさんへのレスを兼ねています。apjさん、ようこそお越し下さいました。


実は、私は、「いい人キャラ」どころか、相当性格が悪いです。
・・・ということを、またもや告白しなければなりません。

私が「論理的に考えるということ」や「科学的方法」の中で、
何かの当てつけのように持ち出していた「論理」「科学」は、
決してそれらをバカにしようとして出していたわけではないのです。

むしろ、逆の意味があったのですよね。


私は「感情を計算に入れ」て、
「相手は、どうやら言説に“感情”をかぎ取ると、拒絶するようだ」
と読み取り、その上で「戦略」を立てました。
つまり、
本当に科学と向き合っているのなら、ご自分の行動を「科学的に」見て疑問には思わないのですか?
・・・という、ある種の「皮肉」を交えたエントリを立ててみたわけです。

しかし、「皮肉」だということをはっきり示していなかったために、
「科学ってそんなもんなの?」という、科学そのものに疑問を呈するかのような言説に見えてしまいました。
結果それが科学を志向する方にとって大いに疑問を呼ぶものになってしまいました。
あらためて、ご不快な思いをされた方々にお詫び申し上げたいと思います。申し訳ありませんでした。
物語だの信じる気持ちだのと、通じない方には通じないということを分かっていながらいろいろ書いてきたのも、混乱を呼ぶ原因になってしまったようです。


今更こういうことを言うのも変かもしれませんが、
私は、論理や科学を不当におとしめてしまってはいけない、と思っています。

現に私自身、窮地に陥ったときや精神論にとらわれそうになったときに、「論理的思考」や「科学的方法」で救われた経験は数知れません。
(余計なお世話ですが)たとえば、一部のいわゆる「お花畑」と言われる方々などには、もう少し「論理的思考」を身につけてみては・・・と勧めたくなることがよくあります。
(おまえが言うな、とか言われそうですけれど。)

しかし一方で、
科学を“拡大解釈”してしまうことも、また科学に対する冒涜に他ならないと思います。
科学は、科学を適用できない範囲(たとえば前々エントリの「信じたい気持ち」など)まで、どうこうすることはできないのです。
本当に科学を志向する方なら、その「科学の限界」を、ちゃんとわかっておられるはずだと信じています。


そろそろ私の出る幕ではなくなってきたようです。
日々真摯に科学に向き合っていらっしゃる方々に、あらためて敬意を表したいと思います。

感情を計算に入れる

一週間離れてはみたが、なかなか水伝から抜けられない。自分でも笑ってしまうしかないが。


ところで・・・
どうやら私は「共感派」に分類されているようだ。
とある場所では「いい人キャラ」とまで言われてしまった。
いったい、私の発言のどこからそういうふうに読み取られたのか、不思議でならない。

まあ、最初の私のたんぽぽさんのところでの発言からして
言ってもいないのに「思いやり」とか「人にやさしく」を読み取られたくらいだから、今更もう驚かないが・・・ちなみに「共感せよ」とか「多様な価値観の尊重」だとかも、一切主張していないのだが。
「書いてもいないこと」どころか「思ってもいないこと」を読み取られているというのがなんとも・・・(苦笑)

私の言いたいことは、徹頭徹尾
「その目的に、その手法は適合しているのか?」ということだ。
目的自体は何だろうとかまわない。その是非は私の価値観で断ずることではない。

しかし、手法を誤ることで目的達成が遠のいたと感じるなら、手法を見直してみる姿勢が少しはあってもいいのではないかと思う。
言い古された言葉だが、「他人は変えられないが自分は変えられる」のだから。

だが、「目的は首尾良く達せられた」
あるいは、
「これ以上のやりかたはなかった」
あるいは
「そもそも目的などなかった」
ということなら、これ以上私が言えることは何もない。
今のこの事態は、起きるべくして起こっているということなのだろうと思う。


もう一つ、私が言いたいのは
「戦略を立てるときには“感情”を計算に入れよ」ということだ。
(最初「感情を勘定に入れよ」にしようと思っていたがオヤジギャグっぽいのでやめた^^;)

「感情を大切に」
でも
「共感せよ」
でもない。
むしろ、それとは真逆だ。感情的にならず、クールに、かつフルに頭脳を働かせなければ「感情を計算に入れる」ことはできない。
戦略を立てるというのは、それほど「非情さ」を要求される作業だ。

自らの美学で?その困難な作業を怠るのは勝手だが、その結果どうなっているかを冷静に振り返ることすらできなくなるのでは、「この人は一体何がしたいのか?」と疑問に思う人を増やすだけだろう。

ところで、
ここにきて、あちこちでいろいろと「腑に落ちる」発言の数々を読ませていただいている。
今私に言えることは、次の二つだ。

「この事態は、起きるべくして起きたのだなぁ」
「戦略の立て方が下手だなぁ」
↑あえて主語は省いている。

信じたい気持ち

ある方からのご提案に一理あると感じまして、一週間ほど更新を中止します。
その前に、打ち明け話をしたいと思います。
長いですが、お読みいただければ幸いです。


ーーーーー

私の母は「左」そのもので、「女性の権利」にもうるさく、また「キョーレツ」な教育ママだった。
持ち帰るテストは、満点でなければ全て叱責の対象だったし、何しろほめられた記憶がほとんどない。
記憶にある母はといえば、父と争っているか、小言を言っているか、出て行こうとしている背中くらいだ。

そんな中、私は母に愛されたい一心で努力してきた。
長く続けていたピアノにもさして執着はなく、母の希望を先回りするかのように、希望通り(厳密には第二志望)の大学に合格した。
自分で自分が何をしたいかさえわからなかった。とにかくいい大学に入れば、母は喜んでくれると思っていたから。

初めての実家を離れての一人暮らし。
そしていつしか、大学に行けない日が続くようになり、悪あがきの末退学した。


ーーーーー

運良く就職したはいいが、先輩男性社員と噂を立てられ、いやがらせを受けるようになり、
逃げるように結婚して専業主婦になった。

私はずっと、自分が女であることを嘆き、愛してくれなかった母を許そうとしなかった。
それが、我が子を授かってから、少しずつ変化しだした。

最初は、子育ては大変なことばかりだと感じていた。
おっぱいをやり、おむつをかえ、またおっぱいをやり・・・
とにかく眠い!しんどい!それだけだった。
それが、いつ頃からだろう、喜びに変わり始めたのは。

気がつけば、ちょっとおしゃまな娘がそばにいて、
自分とは関係なく笑ったり泣いたりしている。
娘が自分を見る目は、私が母を見ていた目と同じなのか・・・
そんなことを考えたりした。


ーーーーー

そんなとき、二人目を授かり、
そして流産した。

もちろん、自分も悲しかった。
しかし私をもっと苦しませたのは、
3才になるかならないかの娘に、これをどう伝えたらいいのか、だった。

「ママのおなかの赤ちゃんね〜、いなくなっちゃったの。」
病院から戻って、ソファーで娘と隣り合って座ってこう言ってみた。
「・・・?どうして?」
私は言葉につまった。
いくらそれが真実でも、「死んじゃったの」とは言いたくなかった。
そう言ったが最後、本当に「無」になってしまうような気がして。

私は、自分が無宗教なのを呪った。
カルトだろうが何だろうが、とにかく自信を持って信じられるもの・言える言葉が
気が狂うほど欲しかった。

「・・・赤ちゃんはね、神様の所に帰っていったのよ。」
結局そうとしか言えなかった。
「なんで?」と不思議そうに聞く娘に、私は涙をこらえながら
「さあ・・・神様のところに忘れ物したのかもしれないね。」
娘は、「ふ〜ん」と言って黙った。

「・・・赤ちゃん、またもどって来るかな?」娘がふいに言った。
「うん、きっとまた来るよ。」
娘は納得したような顔をして、おやつのテーブルに戻っていった。


ーーーーー

あれから何年も経つのに、そのときの気持ちは今も心の奥底に眠っている。
私がカルト的なものに最も近づいたのは、間違いなくこの時だったと思う。

私はずっと、
「勝ち続ける」ことを目標にしていた。
大学を中退した後でさえ、
「失敗から学んで次に生かす」というような、
「望めばかなう」式の考え方をしてきた。

しかし、流産では、それらのどの考え方も私を救ってはくれなかった。
ただただ、何も考えず、涙とともに飲み込むしかない。
世の中にはそういう苦難があることを初めて知った。

信じたい、すがりたいという気持ちを前に、科学は無力だ。
ニセ科学にはまるというのは、ある意味まだ「理性」が働いているとも言える。

科学の敵は、「ニセ科学」そのものであって、
「それを信じる人間」ではない、と思う。
「信じたい」気持ちの人間を、科学で批判して、一体どうなるというのだろう。
あの頃の私と向き合ったとして、かける言葉が浮かぶ人がいるだろうか。
今の私自身でも、それは無理だと思う。


・・・ちなみに、その後しばらくして
赤ちゃんは「戻ってきた」。
今は、毎日姉弟なかよくケンカしている。

なれ合い

以下は、誰が何と言おうと、「水伝」とは関係ない話です。


「社交術」を大切にしてきた部族と、
そういう文化の全く育っていない部族がいるとしよう。

どちらのほうが、「部族間の修羅場」をかいくぐってきた部族だと思うだろうか。


社交術の大切さを述べると、軟弱だとか、本質から目をそらすなとか、そういう言説に当たることがある。しかし本当にそうだろうか。
考えてみたら、社交術というのは、相手を「異質な者」と見なすことを前提にしている。だからこそ、最初に「私はあなたを“敵”とみなしてはいませんよ、話の出来る人間ですよ」という表明を、一定の儀礼にのっとって行うのだ。

これに対して、社交術を軽視できる社会とは・・・
上記とは逆に、「仲間意識」だけでやっていける社会だと言える。
誰にでも彼にでも、礼儀抜きで議論をふっかけていい世界というのは、実は「甘え」に満ちた世界だ。
徐々に、相手に対して礼儀を欠いても、気分を害さないで「本質的な話」が出来ると信じていられる人だけの集まりになっていく。これを「なれ合い」と言わずして何というのか。

本質的な話のためには感情は切り捨てねば・・・というのは、いかにもな酔いやすい言辞だが、それが仲間内の「ハードボイルドごっこ」だけで終わるのでは、単に「思考停止の言い訳」にしか見えない。

その集団の中に、自分たちを客観的に省みることが出来る人は現れるだろうか。
あるいは、他から忠言を受けたときに、聞き入れられる人は現れるだろうか。
それが出来たときに、真に「開かれた」」議論の場であることが証明される。


※ もちろん、「社交術だけ」に成り下がってしまっては、それこそ本末転倒だ。私は社交術に価値を見いだしているが、「それだけでいい」とは決して言っていないので、そこのところくれぐれもよろしく。

次の局面・・・に行く前に

気づいたことがあるので、それに言及してから次の局面に移ろうと思います。


「最初から考えてみた」で、最初はただの「違和感」でしかなかったものに、自分なりに一応の説明がついた気がしている。
そこからさらに考えて、「ぶいっちゃんのほうの対応のまずさ」にも思い至った。

ぶいっちゃんは、たんぽぽさんのところに「何をしに」乗り込んでいったのだろうか。

たんぽぽさんは、「対話する気はなかった」とおっしゃっているとおり、ぶいっちゃんと対話する気はなかったのだろうと思う。そして、ぶいっちゃんのほうも、うすうすそれに気づいていただろう。
(・・・蛇足だが、最初の私のたんぽぽさんとのやりとりの「ずれっぷり」を見直してみるにつけ、自分の「鈍さ」にもあらためてあきれてしまった。そりゃそうだよな・・・)


なのに、ぶいっちゃんは「乗り込んで」行った。
「そんなことは知っていますよ」にw付きで。
ぶいっちゃんは(お酒が入っていたせいか?)ことさらに「人に対して鷹揚に構えている」ポーズを取ろうとしているように見える。有り体に言うなら「話せば分かる」モード、というのだろうか。

しかし、端から対話する気のない人に「話せば分かる」という態度に出られたら、相手もどう出ていいかわからなくなるだけだろう。
結果、「話しても分からない人に話しかけている」という「器量の大きい」人間のふりを続けざるを得なくなる。ここまでくると体面上もあるから、容易には後には引けない。

たとえば
「危険と知りつつ、気づかないところでこそこそ言ってるだけなんて、変じゃないですか?」といった感じの「乗り込み方」だったら、相手も自分の目的のあいまいさに気づいたかもしれないし、あるいは
「知りたくもなかったのに偶然知っちゃったよ。陰口不愉快!!」という「感情丸出し」のほうが、まだよかったような気がする。


あるいは・・・
「自分はトンデモの信者じゃない」と思うなら、徹底的にスルーするという手もあった。

以下は一般論だが、
「対話」で触れたように、開かれたネットの世界では、いやでも自分に対する評価は耳に入ってきてしまう。それを知ったとき、どういう対応に出るか。

相手が話の出来そうにない相手だな、と思ったり、あるいは
そこまでして解くほどの誤解じゃないな、と思ったなら、
「ああ、こういう見方をする人もいるんだな」程度に流す。これは、実生活にも通じる有効な「スキル」の一つではないかと思う。
相手は「自分に向かって話している」わけではないから、というのも、スルーする理由の一つになるだろう。

いちいち出向いていって「私は本当はこうなんです!」と不毛なやりとりを続けるのでは、相手も、そして何より自分が、疲弊するだけだ。
「本質に迫る」話をしたいならなおさら、それを延々続けている姿が人にどう映っているか、まで考えた方がいいと思う。

分かる人は、分かってくれる。
分からない人は、どこまで行っても分からない。
それを認めることは、決して「自分の評価を下げる」ことにはならないと思う。



(以下、余計かもしれませんが一言・・・
私を「不利」と見てなのか何なのか、いろいろな言い方でご心配下さる方がいらっしゃいます。そのお気持ち自体は嬉しいです。
しかし再度申し上げますが、私は「あっち(のほう)が悪い」「こっち(のほう)が悪い」という話がしたくてこのブログを立ち上げたわけではないのです。この紛糾を無駄にしないためにも、そこからできるだけ多くのものを学んで次に生かすことができれば・・・私はそう思っています。)

対話

明日・明後日と更新ができなくなると思います。
本当は、いただいているコメントの一つ一つにじっくりお返事したいのですが・・・時間が許さないのが心苦しいばかりです。
どのコメントからも、「思考の種」をいただいています。今はブログを立ち上げて良かったと感謝の気持ちでいっぱいです。

「思考の種」が芽吹いて実をつけるところまでをお見せできればいいのですが、何分思考を練るのがスローペースで・・・^^;気長に見ていただければ嬉しいです。


さて、ここで以前Rさんからご提案いただいていた件をまとめてみます。
といっても軽めの話ですので、「ふ〜ん」程度に読み飛ばしてください。

私の考える「対話」とは・・・
文字通り「向き合って話す」ことです。
「誰に向かって話しかけているのか」を明確にすれば、かなりのトラブルを未然に防げるということを、経験的に学んできたので、私は原則としていつもそれを心がけています。

しかし一方で、このブログには「思考途中」の文もあります。
たとえるなら、ホワイトボードに向かってつぶやきながらなにやら書き殴っている様子を想像してください(笑)

ちなみに、大体において前者は「です・ます体」、後者は「である・だ体」になることが多いです。

さて、私の最も嫌うところは、「頭越しの会話」です。
頭越しに、しかし本人に聞こえるように、自分についてあれこれ言われるのを聞くのは、誰だって嫌なものだと思うのです。
(高い評価なら別ですけど。やっぱりおだてに弱い?笑・・・でも誰だってそうですよね。)

しかしネットの世界というのは、「開かれている」だけにそうならざるを得ないところがあるのが、何ともすっきりしないところです。

で、私としては
「頭越しに話をしている」ところに当人が現れたら、少なくともまず非礼をわびるくらいの心遣いがあれば、やたらとぎくしゃくした関係を作らずにすむと思っています。
曲がりなりにも、その人を「一人の人間」として、感情も含めて尊重するならば、ですが。

次の局面へ

水伝について、私の言いたかったことは、全て言い尽くした感があります。
なので、水伝についてはこれを最後のエントリにしたいと思います。
これで何も伝わらなかったら、それは私の限界だということです。


少々私の性格の悪さを告白しなければなりません。

私は、知らず知らずのうちに「人を見て、その人に最も訴えかけるやり方」を選んでいるようです。
おおざっぱに言うなら、「この人は情にもろいようだ」とか「この人は論理を重んじているようだ」等によって、出方を少しずつ変えている、ということです。
もちろん、それは途中で微修正されることもあるし、意表を突く違う側面を見ることもありますが。


今回の私の誤算は、「情より論理」を重んじていると思っていた方々が、実はそうでもなかった、ということです。


とにかく、私が出していない判断基準が混じるのには参りました。

「・・・それはいけないというのか?」←いいとか悪いとかの話はしていない
「・・・人にばかり思いやりとかやさしさとかを説くのか?」←そんなことは一言も言っていない
「・・・こっちが悪いのか?ではあっちは悪くないのか?」←いいとか悪いとかの話はしていない

いちいちひもとくのも面倒なので、ここではあげません。

「そもそも目的は?」
「そのための手段としてそれは有効か?」
「実際にそれは効果をあげたか?」
それらはすべて、「科学的に正しい」「事実はこうだ」または「情で封印するな」に持って行かれてしまい、「切り分けて論じる」ことができないのです。
この程度の場合分け、論じ分けもできないのかとため息をつきたくなることがよくありました。

(考えてみたら、たんぽぽさんが、ご自分の賛同者に対して「私に“好意的”なご意見をありがとうございました」などと「賛意」と「好意」をごっちゃにしている時点で気づくべきだったかもしれません。)


では、最初から「情」を前面に出せばよかったのでしょうか?
今となっては、それは私にはわかりません。


たんぽぽさんは、ぶいっちゃんについて「周りをイエスマンで固めている自己愛の強い人」とおっしゃっていますが、

たんぽぽさん、周りをよく見てください。
あなたの周りが、そうなりつつありませんか。

独り言

「論理的」な思考を重ねているつもりでいても、知らず知らずのうちに「情」に絡め取られて見えなくなっているものがある。

逆に、「感情」に突き動かされているように見えるものでも、その中に一片の「論理」が潜んでいる場合がある。

今回の件では、それを身をもって学んでいます。
もちろん他にもたくさん学んでいますが・・・何事も飛び込んでみなければわからないものがあるのですね。

カギコメ対応について

本筋とは関係なくてすみません。

「論理的に考えるということ」のコメント欄で、私の「カギコメ対応」のスタンスについて言及したのですが、はっきり但し書きをつけておいたほうがいいかと考え、以下にカギコメ対応についてのお知らせとお願いを掲載させていただきます。

ここは私のブログですので、カギコメ機能も私の流儀で有効に使わせていただきます。
以下にご同意いただけない場合、公開コメントでのコンタクトをお願いします。
また公開・カギコメ共に、私が対話にならないと判断した場合、削除・拒否の対象となります。

「私の流儀」
特別な事情があったり、はっきりと「お返事はいりません」の但し書きがあれば別ですが、
原則として個人が特定されないように注意しながら、
カギコメにもお返事をさせていただきたいと思っています。
(一方向では「対話」になりませんので。)


これは、今後も譲るつもりはありませんので、以後よろしくお願いいたします。

最初から考えてみた

私がこの件に表だって関わり始めてから気づいたことを、あらためてまとめてみようと思う。
その前に、その「表だって関わりはじめた」記念の?場所をやはりご紹介しておこうと思う。(ご存じの方も多いとは思うが・・・)
私にとっては、記念すべき「始まり」の場所だ。

たんぽぽのなみだ〜運営日誌 騒動が再燃した(4)

(あくまでも「私が関わった中で私が見た」ことを中心にまとめているので、偏りなく全貌を知りたいと思われる方は他の場所も見てみてください。)

・・・一連のやりとりで、たんぽぽさんがしたいと思っているのは「対話」ではない、ということは、よくわかった。
では、たんぽぽさんは「何を」したかったのだろうか?
たんぽぽさんは「ただ批判しただけです」とよくおっしゃっているから、たぶん「批判をしたかった」のだと思う。


では、
「何を」批判したかったのだろうか?

場合分けして考えてみた。

(考えられる場合)
1.「水からの伝言」の非科学性を批判したかった。
・・・もしそうなら、批判の矛先が違うのではないだろうか。
批判すべきは「水からの伝言」を広めようとしている当事者だろう。
ぶいっちゃんが水伝を信じていると感じられたなら、彼はいわば「被害者」だ。

2.「水からの伝言」のような似非化学にひっかかる「人物」を批判したかった。
・・・この場合、また疑問が生じる。
「何のために」(その人物を)批判したのか?

(考えられる場合)
a.(社会に与えるかもしれない)悪い影響を懸念して。
・・・これは、最初の出方を間違えている以上、全く説得力を持たない。
たとえるなら、道に飛び出しそうな子供を目にしながら、「危ないね〜」と世間話をしているようなものだ。

b.ぶいっちゃん個人が心配だったから。
・・・今思うに、私は無意識のうちにこれに違いないと予想していたようだ。(これが目的なら、「対話」は力を発揮するはずだと思った。)
しかし結果は、言わずもがなだった。

c.純粋に、学問上のケーススタディとして取り上げただけ。
・・・おそらくたんぽぽさんの主張はこれだと思う。それなら、「対話」という形から入らなかったことには説明が付く。
しかしそれなら、対象との必要以上のコンタクトは避けるべきだったのではないのだろうか。
心理学の実験などで、被験者に話しかけたり、聞こえるようにあれこれ話したりすることは御法度だ。結果に影響を及ぼしてしまうから。
増してや「被害者」や「謝罪」などという言葉が出てくるはずもない。


・・・それなら、たんぽぽさんは
一体「何のために」批判したのだろうか。

もしかして「批判のための批判」なのだろうか?
それは
「誰それってバカだよね〜」「ホント、バカだよね〜」 レベルの会話と変わりないと私は思う。
そしてそれは、一般に「嘲笑」と言う。

戻ってまいりました。

またお会いできてうれしいです。
(・・・と、前エントリの誤変換のつじつまを合わせる^^;)

今日中にアップしたい記事もあるのですが、まずは各記事でいただいたコメントへのお返事からさせていただこうと思っています。よろしくお願いします。

しばらくお休みします。

かなり没頭してここまできましたが、「物語・3」で一区切りついたので、
ちょっとの間休みます。(リアルがたてこんできたというのもありますが・・・)
閉じたわけではありませんのでご心配なく。
再会は5日になると思います。よろしくお願いします。

物語・3

(これは、「物語・1」「物語・2」の続きです。)
これまで長々と書いてきたが、ここでやっと「水伝」の話とつながる。


これまで、物語を「音楽の世界」を例に語ってきたが、もうおわかりのとおり、
私が本当に言いたいことは、
「人それぞれに物語がある」
ということだ。
ブログを始め、人が表現していることは、物語の中の物語だといえる。
そして各記事は、またその中の物語だ。
(そういえば、愚樵さんに「ブログというのは間奏曲集ですね」と、いきなり核心を突くコメントをいただいて驚いた・・・(笑)


切り出してきたものを批評しようとするなら、
それが「切り出されてきたもの」であることをしっかりと認識してからにすべきだろう。
(いや、もちろんそうしない自由もあるが、それは自分の「底の浅さ」を露呈していると気づいて欲しい。)

実は、かく言う私もその態度はまるでなっていなかった。
最初この件も、「非科学的なものを信じやすいというのは、リテラシーの低さを表している」
としか、とらえられなかったから。(今は自分のものの見方の浅さを悔やんでいる。)

今回の件をきっかけに、当該記事前後の記事も(全てではないが)やっと素直な目で読むことができた。
そこには確かに、不器用ながら日々考えを紡いでいる「物語」が見えたのだ。


中でも私が心を打たれたのは、「脳卒中で倒れた親友の闘病記」だった。
昨日まで元気だった友人が突然倒れ、生死の境をさまよう。奇跡的に体は回復したが、「言葉」を失っている。
人の名前がわからない。時により違う名前になる。
「とけい(時計)」という言葉一つを記憶し、再生するのにも多大な困難を伴う。
長期的な記憶ができない。いらだちから周囲に当たることもあった。

この記事からは、ぶいっちゃんが大きなショックを受けながらも、一進一退の友人に寄り添い、悩み、励ます姿が伝わってくる。
病人だからと甘やかすではなく、かといって厳しく叱咤するのでもなく。また、悲しみに沈むご家族の心の支えとなって、明るさを失わず奮闘している。
こんな友人を持つK氏は、どんなにか幸せだろう。

たった一言を引き出すのに大変な苦労を経験してきた、「言葉」の重みを知らないはずはない人が、ふと口にした「言葉の不思議」。
人間の活動は、科学だけでは説明しきれない部分が多いということを実感してきて、それがたまたま強く思い起こされた記事だったのではないだろうかと思う。
それを、ただのニセ科学信奉者とひとくくりにするのは、ものの見方が浅すぎないだろうか。


一方、「物語」の続きはどうだろうか。
ぶいっちゃんは、男気のある(といったら語弊があるだろうか)タイプのようで、義理を通さない人間に義理を通す筋合いはないと感じているように思う。一方義理人情に厚いので、自分をかばってくれる人の気持ちに最大限配慮しているように見える。
これが一大混乱を巻き起こしてしまったことは確かだ。
(しかし気持ち的にはよく分かる。人間誰しも「意地」があるし、そう簡単には引き下がれないだろう。)

しかしそれも、ここにきて真摯に振り返り、はっきりと謝罪の意志を表している。
「らんきーブログ」という一つの物語が終わろうとしている今、(そして「ぶいっちゃん」自身の物語はまだまだ続く)これで幕引きにすることはできないものだろうか。
彼の人間的資質までが断定的口調で語られ続けるのを、これ以上見るのは忍びない。
失敗した私が言うのはなんだが、「物語を尊重しましょう」とうまく進言できる人は、現れないのだろうか。

うれしい発見

これは、かなり私信に近いエントリです。

ブログを開設してみて・・・

炎上騒ぎだとかネット上でのいじめとか、そういうことを見聞きしていたせいか、ブログを開設したときもそういう恐れが頭をよぎらないでもなかったのですが・・・
世の中って思ったほど悪いものではなかったようです。

たとえば、カギコメにしても、
「これで悪意あるメッセージを書かれたらへこみそうなぁ・・・」という気持ちもなくはなかったのですが、そんな心配は杞憂でした。
思ってもいなかった方から応援メッセージをいただいたりすると、やはり励みになります。
というか、ぶっちゃけめちゃ嬉しいです。

それから、この「拍手」というのもいいですね。
最初はこの機能に気づいていなくて^^;中身をみていなかったのですが、こちらでも暖かいメッセージを見つけて、とてもうれしく思っています。

お一人お一人に具体的にお返事できないのが大変残念なのですが、この場を借りてお礼を申し上げたいです。どうもありがとうございますm(_ _)m


・・・さて!
いくらおだてに弱いとはいえ(笑)、私がここで今最も欲しているのは「賞賛」?より「対話」であります。
これから続くエントリにどうぞご期待下さい。

科学的方法

(これは、「論理的に考えるということ」の「仕切り直し」です。 )


前のエントリを読み返してみて、「論理的な態度」という言葉があいまいすぎたことに気づいた。言葉の定義を厳密にした上で、仕切り直しをはかりたいと思う。

・・・まず、「個人的に学んだこと」。
「態度」や「姿勢」という言葉は、多分に個人的価値観を交えて受け取られることが多いようだ。
結果、言ってもいないことを読み取られ、本当に伝えたいことは伝わらず、混乱を招くばかりだったように思う。
たんぽぽさんのところでは、結局最後まで誤解を解くことはできなかった・・・



私が「論理的な態度」で意味したかったところは、「科学的方法」に近い、ということがわかった。


科学的方法(Wikipediaより)

科学的方法 (かがくてきほうほう) とは、科学者が世界を調査し、世界に関する知識を生み出す方法である。
(中略)
科学的方法の典型的(あるいは理想的)なプロシージャ(一連のステップ)と考えられているものを以下に示す。

観察 (Observation)
現象を観察する、あるいは読み取ること。観測、調査、測定。
仮説 (Hypothesis)
観察事象について思索を巡らし、仮説を考案すること。(仮説とは、推測ではあるが、観察した現象や事実の束を説明できるもの)
予測 (Prediction)
仮説の論理的結果を使い、新しい現象や新たな実験の測定結果を予測すること。
確認
予測が正しく生じるかどうかを検証するために予測の検証実験を実施すること。
評価
推測が確実な説明であると確信が示せるまで、観測結果に対する可能性がある別の説明を探すこと。
公表
結果を他者に伝えること。良質の科学雑誌では、論文の査読を第三者(専門分野での独立した科学者)が論文を出版する前に行う。このプロセスはピア・レビューという手法(2000年イギリスで行政の業績評価手法として採用)として知られる。
追証
他の科学者が、公開された論文を調査し、結果が再現することを確認すること。追証できないときは元の論文は認められない。




これは、「科学」に携わる人なら、最低限身につけているはずのものだ。ここまでは同意いただけるものと思う。

そして、この「科学的方法」は、自然科学のみならず人文科学・社会科学でも必要とされる方法である。

「人間」の存在を全く考えない(自然現象としてとらえる場合は除く)自然科学に対し、人文科学・社会科学は言うまでもなく「人間」あっての学問だ。

(ここから先は、前のエントリにいただいたカギコメさんのコメントに、大きなヒントをいただきました。ありがとうございます。)

当初の「水伝」問題は、もちろん自然科学の上だけの問題だったと思う。
無邪気に信じている人には、自然科学の観点から「間違っている」ということを指摘することができた。

しかし、この「水伝騒動」は、既にその段階にはない。
これを自分の言説の中で引き合いに出したこと、
それを第三者が批判したこと、
それに対する反発、等々、
「人間同士」の一大騒動だ。
つまり、既にステージは自然科学から社会科学に移ったと言える。

そこで、私の最初の「論理的に考えるということ」に戻る。
「自然科学」で立証されたことの正しさを説いている皆さんは、
当然ながら上記の「科学的方法」を身につけておられることと思う。
なのに、なぜそれをこの現象に適用することができないのだろうか。
私は理系ではないが、問題が起きたときにはそれを「不思議」で終わらせず、さかのぼって原因を検証する必要があることくらいはわかる。


・・・まだもう少し考えたいことが出てきそうだが、現段階では私の言いたいことはこれに尽きる。
特に自然科学を絶対と考えているらしい方々からののご意見を伺ってみたい。

物語・2

「物語・1」で間奏曲の話を書いた。


間奏曲は、その前後の物語とともに、一つの大きな世界をつくっているから、
本来それだけ・そこだけを取り出してその価値を云々することはできないものだ。

もっと言えば、
「曲集」というのは、個々の曲がつながりを持って一つの「物語」を形作っていると言える。
交響曲もそうだが、全楽章を通して聞かなければ、本当の物語は見えにくい。
一楽章だけ取り出して聞くのは、作曲家の創造した本来の「世界」ではないのだ。

さらに、
「作曲家の生涯」という単位で、また一つの物語がある。
先述のブラームスの間奏曲にしても、晩年に作られた曲だということを知って聞くと、「ブラームス」という物語が、おぼろげながら感じられる気がする。

そしてそれは、他の作曲家の「物語」と交わる。

さらに、時代という大きな物語が、それを包む。

この世界は、多層構造をなした「物語」の集積だ。


世界の全貌をありのままに知ることは、誰にもできない。全ての曲を聴くことは不可能だから。
それならせめて、ある曲を聴くときは、
それがより大きな物語の一部に過ぎないことを知り、思いをはせる。
そういう謙虚な気持ちで耳を傾けて欲しいと思う。

論理的に考えるということ

「物語」の続きがまとまらないので、その間別の切り口から「水伝騒動」について書いてみる。
今更だが、「論理的に考えること」とはどういうことかについて、考えてみた。
(ちょっとだけ怒っているので、多少表現が荒っぽくなるかもしれない。)


現に目の前にあるものを、「なかったこと」にしない。
あるいは「不思議な現象だ」で片付けない。

これは、論理的であることが大前提の科学の世界では、基本中の基本の姿勢だ。

科学の実験で、予測された結果と異なる結果が出たときに、
「これは単に“変な結果”だった」ですませる科学者がいるだろうか。
科学者は、どんなに意に沿わない結果からでも、そこから何かを得ようと考察を重ねるだろう。それが論理的な態度というものだ。

これは、実際の社会でも同じ。
自分に反論する人が現れたとき、「(自分の考える)正しい主張」と違うからといって、すべてを「変なヤツ」で片付けることは、とても「論理的な態度」とは思えない。

人の脳内のことは「幻」扱いされても仕方ないかもしれない。反証することは不可能だからだ。
しかし、
「異論を呈する人間が、少なくとも複数存在する」
これは、まぎれもない「事実」ではないのか。
人の脳内のことではなく、「事実」をもとに検証しようとするのが、論理的態度ではないのだろうか。
今ここでこれを書いている私を始めとして、「人の存在」は、「幻」ではない。


「論理的態度」というのは、「客観的に見て正しい主張をすること」ではない。
何か勘違いしていないだろうかと思う。
事象から論理的に考察を重ね、そこにあるごく小さな何かをすくい上げることだ。

人に検証してもらい、人に正しいと証明してもらった理屈を、「正しいものは正しい」とごり押しする、そんな論理性は論理的とは呼ばない。

物語・1

まるで何かに憑かれたように、記事をアップし続けている。
まあ、こういう時は人生にそう何度も訪れるものではないから、とりあえず行けるところまで、やってみるのみだ。


私はピアノを弾くので、音楽(特にクラシック)を深く愛している。
ブログIDは、たまたま手元にあったブラームスの間奏曲集から拝借した。(・・・何を入れてもはじかれるので、「これならどうだ!」と半分勢いでつけてしまったのだけれど。)
このDrei(3つの)Intermezzi(間奏曲intermezzoの複数形・ちなみにintermezzoは、やはりはじかれてしまった…)op.117は、私の大好きな曲集だ。
今はちょっとだけマイブームを過ぎてしまったが、ブラームスがお気に入りであることに変わりはない。


「間奏曲」の定義は、文字通り「曲と曲の間」に演奏される小品(たいていの場合)なのだが、
若い頃の私は、「第九」や「英雄ポロネーズ」みたいな大曲ほど名曲だと信じていたところがあって、「間奏曲」のような小品にはあまり価値を見いだせずにいた。

さて、ブラームスの間奏曲だが・・・
ブラームスは晩年になってピアノのための間奏曲を数曲書いているが、
「間奏曲」と言いつつそのどれもが独立した作品であって、「何かと何かの曲の間」に演奏されるためのものではない。
それって「間奏曲」じゃないのでは・・・?
そう思うかもしれない。確かにその通りだ。


ブラームスの間奏曲は、
その前後の「物語」の存在を感じられる人
のためのものではないか、と思う。

「前後」の物語、それは何も「ブラームスの曲」に限らない。
音楽である必要さえもないと思う。

独立して現れた「間奏曲」の前後にあるものは、
聞く人、弾く人それぞれに違うものにになるだろう。
そこに、人は自分にしかわからない「物語」を聞く。だから間奏曲が味わい深いものになるのだろう。


(この話には続きがあります。しかし今日はもう寝ますのでまた次回…
「のだめ」で交響曲第一番が人気を得たブラームスですが、ご興味のある方は、op.117もぜひ聞いてみてください。
ただし、暗いです。今の季節に合うかどうか・・・^^;

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