子供は「事実」が大好きだ。
「事実」は何よりも強いと思っている。
たとえば、よくある子供のケンカは、「これは事実だ」という主張に基づいてなされるものがとても多い。(実感)
「今『バカ』って言っただろ?!」
「違うもん、『バカ“みたい”』って言ったんだよ!『バカ』とは言ってないもん!」
「『バカみたい』って『バカ』と同じじゃんかよ!」
「残念でした、意味も違うし字も違うだろ!ほんとバカみた〜い」
(・・・以下、ケンカは続く)
ケンカを親に仲裁されて。
「・・・じゃあ、あんたも謝りなさい。」
「(蚊のなくような声で)ごめんなさい」
「何?聞こえなかったよ。」
「ちゃんと謝ったよ!」
「聞こえるように謝らなきゃだめでしょ」
「わかったよ!(バカでかい声で)ゴーメーンーナーサーイー!!!」
(・・・たいていの場合、また怒られる)
私の見たところでは、その傾向は反抗期の男子に最も強く見られるようだ。
(女子は、「男子ってバッカみたい」と言いたげな覚めた目でそれを眺めている場合が多い。)
しかし、だ。
別に寛容さをアピールしたいわけではないのだが、
その「事実へのこだわり」をほほえましい目で見ている私もいる。
・・・と書くと「上から目線」みたいだが、そうではない。
こういう「事実」にこだわる姿勢こそが、科学などへのあくなき探求心の「原動力」になっているのではないか、と思うのだ。
この「こだわり」は、それ「だけ」で終わってしまっては、まさに子供レベルに終わってしまうだろう。
しかし、
他人にも納得のいくようにそのこだわりを説明できる力
や、
他人のこだわりを理解しようとする力、
あるいは
そのこだわりが、世の中にどのように役立つかを考察できる力
などと組み合わさったときには、この「こだわり」はとてつもない力を持つのではないかと思う。