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Author:8番ライト
考えるコトが好きです。
なので、よく考えすぎて失敗します。
そのわりに考えなしの失敗も多いです。
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今後

エントリがもう一つ増えてしまいますが、最後にこのブログの今後についてご連絡したいと思います。


コメント欄とトラックッバックは、しばらくあけておきますが、25日(金)に一旦閉じる予定です。
お返事はできる限りさせていただきます。
その後は決めていませんが、完全閉鎖する場合前日までにはご挨拶のエントリを上げるつもりです。

また、お世話になった方のブログには、別途ご挨拶に伺おうと思っています。その後はROMに戻ります。


最後にもう一つ、念のためお断りさせていただきますが・・・
私がこのブログの休止を決めたのは、「楽観的」理由に寄ります。意外に思われる方も多いかもしれませんが・・・

たとえば、
ネットの中でいくら「醜い争い」をした相手であっても、リアルの生活で出会ったら、きっと気づかないと思います。それぞれに、家族に愛され、地域や会社に重んじられる方ばかりでしょうから。
それならなにも、デフォルメされた「醜い部分」ばかりにとらわれることはない。そう思ったのです。

ネットというのは、人の魅力を伝えるにはあまりにも不完全な道具だと思います。
だからこそ、そんな中で得られた「魅力ある人との出会い」は、大切にしたいものだと思いました。


いろいろお世話になり、ありがとうございました。


:追記:

コメント・トラックバックの受付を停止しようと思ったのですが、やり方がわからず四苦八苦しています(最後まで情けない・・・(T T)
「これかな?」と思う方法でやってみたら、コメントが全て見えなくなってしまうので、お返事を読んでいただけるように、いくつかのエントリだけコメント可の状態にしたまま休止することにしました。
方針変更の際にはまたご連絡しますので、よろしくお願いいたします。


:追記2:
お返事を読んでいただけたものと判断しましたので、コメント欄を全閉鎖しました。

小さな幸せと大きな幸せ

最後は、やっぱり「音楽ネタ」にしました。(実はリクエストらしきものもありまして♪)


1.小さな幸せ

この1、2ヶ月ほど、私が打ち込んで練習していたのは、ラヴェルの「水の戯れ」です。

実はこの曲、今までも何度か弾いてみようとしたのですが、あまりの譜読みの困難さに挫折を繰り返していました。
その難しさときたら、何かの嫌がらせ?!と思うほどなんですよ。(譜面を見た子供は「これ音楽なの?!ただの模様みたい、おもしろ〜い♪」と大受けしていました・・・)

・・・まあ、もともと私はそれほどラヴェルが好きというわけでもなく、「水の戯れ」にしても
「水の流れる様子をうまく描写しているなぁ」
くらいの感想しかなかったので―下手をすれば「ちょっと凝った環境音楽」くらいの評価だったかも―練習に身が入らないのも無理はなかったのかもしれませんが。

それが、何を思ったか急に練習する気になり(・・・これも「水伝効果」か?なんて冗談ですよ^^;)そうこうするうちに弾けるようになってきたのです。
すると、どんどん曲の魅力に・・・いや、ラヴェルの魅力にとりつかれてしまいました。
弾けるようになってから感じ始めた悦楽は、ただ「聴いていた」ときに感じていたものとは、比べものになりませんでした。

演奏者には、時折ものすごい「幸せ」が訪れます。
ところが残念なことに、この幸せはほとんど人と共有できません。

指先から伝わってくる生きた響き、
メロディーが気持ちと重なる喜び、
特定の箇所を弾くとなぜか目に浮かぶ、幼い頃の思い出、など・・・
そのどれもが、誰とも共有できない「幸せ」なのです。
音楽というのは、「孤独」となんて相性がいい世界なのだろう・・・そんなことを思いました。


2.大きな幸せ

そんなとき(・・・正確には2週間ほど前)、今度は正反対の経験をしました。
それはベートーベンの「第九」です。「泣く子も黙る」という感じですが^^;
毎年「市民による第九」が合唱参加者を募集していて、ずっと気になっていたのですが、勇気をふるって今年初めて講習会に参加してみました。

最初の一声で、身震いがしました。

今までに味わったことのない「一体感」・・・それは「個々の声の集合」なんかではなく、まるで皆が大きな一つの楽器になったような、そんな感覚です。
これは(・・・というか、これも)体験してみないことには決して知り得なかった喜びでした。

実は私の母は合唱をやっていたので、毎年第九を歌っており、私たち兄弟は毎年聴きに行っていました。
「母との確執」についてはこのブログでも触れましたが、私はずっと女声合唱の響きの中に母親の歌声を聞き、愛憎渦巻くような感情に涙がこみあげてきたものでした。
最近はすっかり穏やかに(朗らかに)なった母に、電話で第九を歌うことを報告したのですが、そのときの母の嬉しそうな様子は私の想像以上で、これも驚きとともに感慨深いものがありました。

「やっぱり歌詞がいいわよね。『全ての人間が兄弟となって』・・・」
熱っぽい母の語りを「やっぱりあんまり変わってないな^^;」と思いながら聞きつつも、私は音楽のもたらしてくれたもう一つの幸せ(理屈を超えた一体感=大きな喜び)に浸っていました。


この「孤独」とは対極にある喜びもまた、まぎれもなく音楽の醍醐味です。
相反する二つの喜び。そのどちらも、「真実」です。
片方は正しくて、もう片方は正しくないというものではありません。
「音楽と正面から向き合う」(from「のだめ」)ためには、「真実は一つ」という言葉に逃げ込むのではなく、一見相反するように見える二つ以上の真実と向き合うことこそが求められるのだと思います。

傷ついたのも「本音」、救われたのも「本音」

「何かが始まるとしたら、それは『対話』から。

そう考えてたんぽぽさんのブログに意見しに行った私は、結局撤退しました。
先方は「対話しようとしていない」と判断したから、というのが、理由の一つです。

その後私を悩ませたのは、垂れ流される「本音攻撃」でした。

「ネットに表も裏もない」という理屈のもと、外面を取り繕った表の顔とは似ても似つかぬ中傷の山は、私を悩ませ傷つけるに十分でした。
言葉そのものに対して傷ついたのではないのです。
「こういう形での本音の表現法のどこが悪い、傷つく方がおかしい」と言いたげな、その姿勢に、でした。

理屈ではもちろんその通りでしょう。
しかし、人間ってそういうものでしょうか?

少なくとも私が「対話」を重視していることを知っていながら(・・・知らないとは言わせません)そのような形での批判をして、私が何も感じないはずがないとは思わないのでしょうか。
それでいて、私とサシで話す時には、まるで何事もないかのように平然とコメントをしてくる。
私にはその神経が全く理解できませんでした。

(※もちろん、全てがそうだったというわけではありません。一定の距離感に誠意を感じるものも多々ありました。)

しかもそういう方に限って、私の発言にこめられた「本音」を読み取るのが絶望的に下手なのです。
言葉の上っ面だけを取り上げて「敵認定」しては、表面的な批判を繰り返しているのです。
その読みの浅さには何度も唖然とさせられました。

もともと私は「本音トーク」の場に乗り込むことは好まないので(「見て見ぬふり」をするのが私の流儀でした)、出向いていって説明しようとは思いませんでしたが、
やはり私も感情のある人間です。何度乗り込んでいこうと思ったかわかりません。
しかし、ある場所でのあるコメント(私に向けてのものではないのですが)が、私を思いとどまらせてくれました。

・・・・・・・・・・・

垂れ流される「本音」に傷ついた話をしましたが、皮肉なことに逆に私を救ってくれたのも「本音」でした。
それは、「カギコメ」の数々です。(一部メールも有り)

カギコメのほとんどは、応援コメントでした。
思ってもいなかった方からのエールもありましたし、騒動の「当事者」の方からの、苦悩が伺えるコメントもありました。
同じ方のコメントが、少しずつ変わっていくのを見るのは、なかなかどうして感動的ですらありました。

もちろん、批判コメントもありました。
しかしそのどれもが、真剣に・真摯に考えてくださっているのが感じられる、耳を傾けるに値するものだったのです。

少なくとも、いただいたカギコメは全て
私にとっては「ブレーキ」となってくれました。
「アクセル」になってしまったものは、一つとしてないのです。
もしかしたら、批判というのは
「他人の目」を意識しないでいられる、つまり「当人“だけ”に届くやり方」のほうが、効果的なのかもしれません。
(「さらし者にしたい」などの別の目的がある場合は、この限りではありませんが・・・)


今更のように「本音」の力を目の当たりにした私は、もっと「カギコメ」の有効性を見直してみてもいいのかも、と考えています。

休止します

このところ、いろいろな方面で「限界」を感じてしまい、どうも記事が書きにくくなってしまいました。
そこで区切りをつける意味で、あと2回ほど記事をアップした後に、一旦このブログを「休止」しようと思っています。
再開時期は未定です。今のところ消してしまうつもりはないのですが、それも気が変わるかもしれません。(そのときはお知らせします。)
突然、しかも勝手な決断で申し訳ありません。

一つ、思ったのは
私の立ち位置はやはり「中途半端」かも、ということです。
(共感を大切にしている・でも論は論として大事にしたい)
そして、このブログではどちらかというと「共感」をベースにしようとはしていませんでした。


・・・これを書くと「ほ〜ら、やっぱり“共感派”じゃないか」と、どこかで書かれるのかもしれません。

私が何かに追われるかのようにブログを立ち上げたのは、(日付を見ていただければおわかりかもしれませんが)「らんきーブログ」の閉鎖に間に合わせるためでした。
特にその頃には、ぶいっちゃんは「完全削除」を宣言していましたから、とにかく何にせよ、こんな形での終わり方を見たくない!その一心でした。
・・・不思議なものです。私はずっとぶいっちゃんには批判的だったのに。
(疑っている方もいらっしゃるかもしれません。でもぶいっちゃんのブログには、私が「8番ライト」のHNで入れた批判が、まだ残っていると思います。)

また、その前の水葉さんのブログの閉鎖にも、かなり衝撃を受けました。
ブログを閉鎖して反論の機会を自ら奪うなんて、並大抵の決断ではなかったと思います。
いくら共感できない人であっても、そのくらいは想像がつきました。

そしてその後は、ご存じの通りの展開に・・・
人のブログの閉鎖に間接的とはいえ関わっていながら平気でいられる、それどころかいなくなった人の「人格分析」エントリをいくつも連ねる、その神経に大いに疑問がわいたのです。
これはどう考えても異常事態だと思いました。
たとえトンデモな記事で大炎上したブログであっても、閉鎖した後も何ヶ月もブログ主の「人格分析」がなされるなんてことは考えられません。

さらに不思議だったのは、「もういいでしょう」と止めることの出来る人が現れなかったことです。(もちろん、私もその失敗した一人です。)
ぶいっちゃんは、少なくともやっしゃんさんからの提言を受け入れました。
しかしたんぽぽさんは・・・
「批判を受け入れよ」とおっしゃる方が、わずかな批判すら受け付けないというのは、単純に考えて「説得力がない」ように思います。


・・・さて・・・
動機の部分では「共感」バリバリだった私ですが、
考えてみたらぶいっちゃんのブログはまだ続いているし、水葉さんのブログの再開も見届けました。
そして、騒動は新たな局面を迎えつつあり(もう何度目の局面でしょうか・・・)たんぽぽさんも相変わらずです。
これ以上私がここで中途半端な立ち位置から論を振り回す意味が、あまり見いだせなくなってきました。


・・・以上がブログ休止の理由らしきものです。

某所で「私闘とはこうやるものよ!」の見本のようなものも見せていただいたこともあり、あと二回のエントリでは、やや「本音」をストレートに出してみようと思います。
皆様もどうぞ本音をお聞かせ下さい。差し支えがあるようでしたらカギコメで・・・
(でも、できれば締めくくりにふさわしい言葉でお願いいたしますm(_ _)m)

裏拍担当

先日子供の合奏発表会で、面白い現象を見た。


4分の4拍子の元気な曲。小太鼓とトライアングルが正確にリズムを刻んでいる。

一拍目・三拍目・・・小太鼓

二拍目・四拍目・・・トライアングル

聞こえてくるリズムは
タン!(チーン)、タン!(チーン)、・・・」こんな感じだ。

一番が終わり、二番に入ったときに、その現象は起きた。
一番の終わりが少々難しかったらしく、小太鼓の子は少々のミスをきっかけに混乱してしまったようだった。
何とか立ち直り、無事演奏は続いたのだが・・・

ナント、そのとき小太鼓とトライアングルの役目が見事に入れ替わっていたのだ。

チーンタン!)、チーンタン!)、・・・」

聞いていた人でこの変化に気づいた人は、おそらくほとんどいなかったと思う。
それほど自然に、リズムを刻んでいた。子供たちの表情も、動揺を感じさせない、普段通りの真剣なものだった。

トライアングルの子は、小太鼓が少々遅れだして二拍目と四拍目に近くなったところで、(恐らく無意識のうちに)一拍目と三拍目を受け持ったのだと思う。
私はこの現象に、妙に感心してしまった。
人間は無意識のうちに、集団の中で自分の役割を少しずつ変えながら、バランスを取ろうとしているのかもしれないな・・・そんなことを考えた。


ここで、話は大いに飛躍するのだが・・・^^;今日本屋の店頭をつらつら眺めながら思ったこと。

本屋では相も変わらず、スピリチュアルだの血液型だのの「非科学的な」本がひしめいている。
そのうち勢いも衰えるだろうと思っていたのだが、今のところその兆しはない。
この科学全盛の時代に・・・と不思議に思ったりもしたのだが、もしかしたらこれは
「科学」が強くなりすぎたことに対して、人間が無意識のうちにバランスを取ろうとしているために起きている現象なのかもしれない・・・
ふと、そんなことを考えた。

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