「何かが始まるとしたら、それは『対話』から。
そう考えてたんぽぽさんのブログに意見しに行った私は、結局撤退しました。
先方は「対話しようとしていない」と判断したから、というのが、理由の一つです。
その後私を悩ませたのは、垂れ流される「本音攻撃」でした。
「ネットに表も裏もない」という理屈のもと、外面を取り繕った表の顔とは似ても似つかぬ中傷の山は、私を悩ませ傷つけるに十分でした。
言葉そのものに対して傷ついたのではないのです。
「こういう形での本音の表現法のどこが悪い、傷つく方がおかしい」と言いたげな、その姿勢に、でした。
理屈ではもちろんその通りでしょう。
しかし、人間ってそういうものでしょうか?
少なくとも私が「対話」を重視していることを知っていながら(・・・知らないとは言わせません)そのような形での批判をして、私が何も感じないはずがないとは思わないのでしょうか。
それでいて、私とサシで話す時には、まるで何事もないかのように平然とコメントをしてくる。
私にはその神経が全く理解できませんでした。
(※もちろん、全てがそうだったというわけではありません。一定の距離感に誠意を感じるものも多々ありました。)
しかもそういう方に限って、私の発言にこめられた「本音」を読み取るのが絶望的に下手なのです。
言葉の上っ面だけを取り上げて「敵認定」しては、表面的な批判を繰り返しているのです。
その読みの浅さには何度も唖然とさせられました。
もともと私は「本音トーク」の場に乗り込むことは好まないので(「見て見ぬふり」をするのが私の流儀でした)、出向いていって説明しようとは思いませんでしたが、
やはり私も感情のある人間です。何度乗り込んでいこうと思ったかわかりません。
しかし、ある場所でのあるコメント(私に向けてのものではないのですが)が、私を思いとどまらせてくれました。
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垂れ流される「本音」に傷ついた話をしましたが、皮肉なことに逆に私を救ってくれたのも「本音」でした。
それは、「カギコメ」の数々です。(一部メールも有り)
カギコメのほとんどは、応援コメントでした。
思ってもいなかった方からのエールもありましたし、騒動の「当事者」の方からの、苦悩が伺えるコメントもありました。
同じ方のコメントが、少しずつ変わっていくのを見るのは、なかなかどうして感動的ですらありました。
もちろん、批判コメントもありました。
しかしそのどれもが、真剣に・真摯に考えてくださっているのが感じられる、耳を傾けるに値するものだったのです。
少なくとも、いただいたカギコメは全て
私にとっては「ブレーキ」となってくれました。
「アクセル」になってしまったものは、一つとしてないのです。
もしかしたら、批判というのは
「他人の目」を意識しないでいられる、つまり「当人“だけ”に届くやり方」のほうが、効果的なのかもしれません。
(「さらし者にしたい」などの別の目的がある場合は、この限りではありませんが・・・)
今更のように「本音」の力を目の当たりにした私は、もっと「カギコメ」の有効性を見直してみてもいいのかも、と考えています。